【さくら市狭間田】
○ 大黒塚/几号水準点 別頁
【大田原市佐久山】
○ 佐久山観音堂/几号水準点
○ 正浄寺/几号水準点/芭蕉句碑
○ 御殿山公園(佐久山城跡) 別頁
【大田原市中央】
○ 金燈籠/几号水準点 別頁
奥州街道(市野沢〜練貫〜乙連沢〜野間〜鍋掛)
【大田原市市野沢】
○ 弘法大師の碑
【大田原市練貫】
○ 練貫 永代常夜燈(道標/几号水準点)
○ 愛宕神社
○ 鴻巣馬頭観音堂(鵜黒の駒) 別頁
【大田原市乙連沢】
○ 明治天皇御駐輦紀念碑
【那須塩原市野間】
○ 馬頭観音
○ 馬頭観音 別頁
○ 野間 別頁
【那須塩原市鍋掛】
○ 樋沢の不動明王像
○ 樋沢の大沼
○ 鍋掛の一里塚
○ 鍋掛神社(愛宕神社/温泉神社/鶏鳥神社)
○ じゅうが道 別頁
○ 清川地蔵尊
○ 鍋掛の芭蕉句碑
○ 正観寺脇道標 別頁
<几号水準点>
喜連川から県道48号を行くと佐久山前坂交差点で県道52号と交差し、
奥州街道をそのまま行くと左手に観音堂があります。
観音堂前に几号の標示板があり几号水準点があります。
コンクリートで補強され固定されています。
<几号水準点>
山門右「門前川越阿彌陀ノ女來石塚」の台座にあった几号水準点が、
蓮如上人像の奥に庭石として移設されていたようですが、
境内がきれいに整備され、几号水準点の行方を確認できませんでした。
寺のホームページの「境内のご案内」には、写真入りで水準点が紹介されているので(こちら)、
自分の探し方が甘かったようです。
<松尾芭蕉句碑>
本堂左手に、建立年代不明の芭蕉句碑があります。
「花の陰 謡に似たる 旅寝かな 芭蕉」
街道沿いにありましたが、火災で赤く焼け正浄寺境内に移されたとのことです。
「那須湯道」
野間の手前の練貫に宝暦6(1756)年建立の「永代常夜燈」があります。
正面に「永代常夜燈」側面に「右奥州街道」「左原方那須湯道」と刻まれています。
ここの常夜燈には火袋がなく不思議な形をしています。
過去の地震で倒れた時、火袋が砕け笠と土台だけで戻したのかなと考えたりします。
<几号水準点>
十九夜塔の台石に几号水準点が刻まれています。
明治9(1876)年6月2日、明治天皇御一行は奥羽地方巡幸のため、二頭立ての馬車で赤坂仮皇居をたたれました。
金田村乙連沢六町歩地内高台の「明治天皇御駐輦記念」(昭和3年3月建碑)はこのおりの6月12日の小休所跡です。
(「栃木県史」を参照しました。)
「明治天皇駐輦紀念碑」
羽田の八龍神社から来て、奥州街道に出ると、かなり摩滅していますが、馬頭観音?があります。
再訪してもみつけられません、失われましたかね。
低木に覆われて隠れていただけでありました。
明暦2(1656)年銘の不動明王像が祀られています。
(説明板)
「樋沢の不動明王像(お不動様)
この像は寄木造りという二材以上の木を組み合わせる技法で作製されたもので、背面に明暦二年(一六五六)に作製されたと記されている。同じく背面下部には製作者の名前らしき文字もあるが、現在、判読することはできない。
地元では「お不動様」と呼ばれ、かつては縁日などの際、近隣の村からも多数の参拝者があったと伝えられている。
不動明王には、病魔退散、家内安全、商売繁盛などのご利益があるといわれ、左手に持つ羂索と呼ばれる綱で衆生を導き、右手に持つ利剣で、煩悩を断ち切るといわれている。
平成二十六年三月 鍋掛地域車座談議運営委員会」
「伝説の大うなぎ,樋沢の大沼」と書かれた看板のところを入ります。
延暦16(797)年、坂上田村麻呂が盗賊征伐に向かう途中、この大沼に住む人食いうなぎを退治したといわれています。
(説明板)
「樋沼の大沼
野間の大野家文書によれば、延暦十六年(七九七)平安初期の武将坂上田村麻呂が、盗賊高丸追討のたけ下向し、那須野原茶屋台(現成功山の麓)に布陣した。それより二十余町東に大沼があって住民がこの沼の鰻が民を取食い悩ますと訴えたところ、田村麻呂は人夫を集め、沼を掘り抜き干潟とし「二十尋」もある大鰻を退治した。
この事からウナギヶ沼と言うようになったという。また掘り抜いた水尻が大沼となって下へ流れず干しあがったので「ヒサワ(干沢)という也。」と地名の由来を伝えている。
この沼は千二百年以上も前から常に満々と水を貯え当地の命の水として使われてきたのである。
平成二十二年三月 鍋掛地域車座談議運営委員会」
(標柱)
「黒磯市指定文化財(史跡)鍋掛の一里塚
昭和四十四年一月一日指定」
(説明板)
「那須塩原市指定文化財 鍋掛の一里塚(史跡)
管理者 鍋掛神社
江戸時代、全国の主要な街道に日本橋を基点として一里毎にその目印として築かれた塚で、ここ鍋掛愛宕峠の塚は奥州街道四十一番目のもので、江戸より四十一里(約百六十一キロメートル)の距離を示す塚である。
(鍋掛宿誌)
当時の旅人の目印として、そして休憩地として親しまれていたそうである。
「野間の大野家文書」には、慶長九年甲辰(一六〇四)に築かれたという記録が残っている。
もとは、ここより約十一メートルほど東側にあったが、道路の拡張工事等により現在地に移された。(平成六年三月)
また、かっては街道の南側にも塚があったが、現在では残っていない。
昭和四十四年一月一日 指定 那須塩原市教育委員会」
(説明板)
「愛宕神社(鍋掛神社)
寛文五年(一六六五)以前の勧請。
昭和三十年愛宕神社に元無格社温泉神社と鶏島神社が合祀され、鍋掛神社と改称された。
愛宕とは、火を意味する古語からきているともいわれ、日本各地にある愛宕神社の本社は京都市左京区愛宕町にあり火伏せ(火災を防ぐ)の神がまつられている。
本市の西那須野地区には「あたご町」という町名があり、その由来は、町内にある愛宕神社にあるといわれている。
また、塩原地区にも関谷愛宕神社がある。
平成二十二年三月 鍋掛地域車座談議運営委員会」
(説明板)
「清川地蔵尊
管理者 鍋掛行政区
清川地蔵の建立は、延宝七年(一六七九)で、本市の石仏地蔵の中では古いものである。
当時の宿場の生活は決して楽ではないと思われるが、人々の信仰の強さを物語る大きな地蔵である。
お地蔵様は、庶民のあらゆる願いを叶えてくれるもの、また子供の成長を見守ってくれるものとして信仰されてきた。
特に、清川地蔵は子育て地蔵として地元民の信仰が厚かった。
毎年四月二十四日の祭礼には集落の女性全員が集まり、ここ清川地蔵様だけに唱える念仏が行われている。
平成六年三月吉日 那須塩原市教育委員会」
鍋掛の芭蕉句碑は、清川地蔵尊→(県道建設)→鍋掛神社→(景観形成)→八坂神社と移動してきています。
「野を横に馬牽むけよほとゝぎす」(那須塩原市の説明板)
那須塩原市によると、この句は余瀬より蜂巣を過ぎると野間までは広き野原が続いていたので、この間につくられたものと思われるとしています。
文化5(1808)年に鍋掛宿の俳人菊池某ほか数名で建てたものとしています。
(説明板)
「芭蕉の句碑
芭蕉が元禄二年(一六八九年)三月(旧暦)「奥の細道」行に旅立ち、黒羽より高久に向かう道すがら四月十六日、手綱をとる馬子の願いにより作り与えた句を碑にしたものである。
野を横に 馬牽きむけよ ほととぎす
この句は、どのあたりでつくられたかは明らかではないが、余瀬より蜂巣を過ぎると野間までは広き野原が続いていたので、この間につくられたものと思われる。
その昔行なわれた那須野の狩を想い起こし「私も武将になったつもりで、いばって命令してみようか」という心境で詠んだものである。
句碑の建立は、文化五年(一八○八年)十月に、当時鍋掛宿の俳人菊地某外数名によるものと思われる。
平成五年(一九九三年)三月、街道景観形成事業により、ここに建て替えられた。 黒磯市教育委員会」
「野を横に馬牽むけよほとゝぎす」(那須郡誌の解説)
「那須郡誌」(大正13年)に芭蕉句碑の経緯が記されていたので(推測でしょう)紹介しますと、
芭蕉一行は鍋掛の茶亭に寄ります。馬子は芭蕉直筆の句の短冊を得て上機嫌です。
(注:野間で馬を返すと記載した曽良の日記は、大正13年の時点では発見されていません。)
馬方は、茶亭の亭主に「野を横に〜」の短冊を見せて「すごいでしょ」とご披露、ご自慢。
すると亭主はすぐに硯を出して「この句いただきたい!」と乞います。
常念寺と清川地蔵尊の傍らにこの句が石に刻まれているのはそのためと記しています。
(参考)
「芭蕉直筆とされる句碑(常念寺)」(こちらで記載)