勝善碑、馬頭観世音碑がやたらと多い栃木の街道筋です。
与一の愛馬「鵜黒の駒」墓や、日中戦争の軍馬碑もあります。
馬頭観世音碑は、馬の健康や、死んだ馬の霊を供養するために建立されたもので、
馬がたくさん飼われていたこと、馬を大事にしていたことがわかります。
【鵜黒の駒】
○ 馬廻塚馬頭観音堂 那須町上半俵
○ 鴻巣馬頭観音堂 大田原市練貫
○ 駒込の池 大田原市大輪
○ からす石 那須町高久甲
【矢板市】
○ 玉田生駒神社 玉田
【日光市】
○ 仲附の旅籠 藤原
○ 勝善碑並びに馬頭観世音碑群 藤原
○ 鬼怒川馬頭観音群 鬼怒川温泉滝
○ 神馬の碑 山内 別頁
○ 馬返し 細尾
【那須町】
○ 室野井の生駒大神 室野井
○ 神馬 那須温泉神社
○ 那須駒 黒田原
【那須塩原市】
○ 殉国 愛馬の碑
宇都野
○ 地方競馬教養センター 接骨木
○ トテ馬車 塩原温泉
○ 井口の生駒神社 井口
○ 鳥野目の生駒大神 鳥野目
【那珂川町】
○ 馬頭院 那珂川町 別頁
○ 出征軍馬之碑 那珂川町
【高根沢町・芳賀町】
○ 御料牧場 高根沢町・芳賀町
那須町上半俵の馬頭観音堂の境内に、
与一の愛馬「鵜黒の駒」を埋葬した馬廻塚(うまめぐりつか)があります。
半俵の馬頭観音は那須郷はもとより福島県南部まで知られた聖地で、祭礼には、
参道は並びきれないほどの馬でうまりました。
参詣者は塚のまわりを三遍廻り歩き、この塚は馬廻塚と言われました。
那須家は9男までを平家の陣に出陣させていたため平家が滅ぶと源頼朝の命を受けた梶原景時に攻められ、
高館城は落城し、資隆と9人の子どもは那須から敗走。資隆は福原城へ、9人の子どもは信州へ。
逃げる時、那珂川に鐙を捨てたところが「鐙淵」です。
城内で飼われていた鵜黒の駒は野馬となって那須山麓にのがれていました。
鵜黒の駒が死んだ時、秋元出水亮が、馬の住んでいた近くの小高い山の上へ埋め、塚を築き、
その子孫がこの塚の傍に馬頭観音堂を建て馬の繁栄を願いました。
以上、大野氏の記述を主体に、昔の温泉紹介本から補足しました。
<馬廻塚馬頭観音堂(馬頭観世音)>
灯籠は2基とも震災で崩壊。
石仏群も半数以上は倒壊(震災後だったので、今は修復されているでしょうか)
境内は山の上とは思えないほどの、平面で広いです。
<馬巡墳>碑
「馬巡墳」碑がありました。感動ものです。
<生駒大神>
観音堂の裏に生駒大神の大碑があります。この碑の本宮は、矢板の玉田生駒神社か?
<馬頭観世音菩薩>碑
馬廻塚の横に、馬頭観世音菩薩碑が建っています。
御料牧場で明治に生まれ、大正10年に病招の種牡馬第9フォレストを人見氏が弔と刻まれています。
<馬廻塚>
観音堂の横に馬廻塚があります。
石柱に刻まれた奉納者見ると、記銘は、秋元さんに人見さん、そして、秋元さんに人見さん、ほとんど。
塚の回りはぐるぐる回れるスペースがあり、馬廻塚と呼ばれるのも納得します。
立派な鵜黒の駒のお墓です(言い伝えなので、真偽は別として)。
塚廻りは、3回で良いのですけれでも、記銘見たり、写真撮ったりで、5回は巡りました。
<堂内の奉納額>
馬の奉納の額が色々とあります。
これは驚いた! 桃太郎が日本一の旗竿持った猿を従え、馬を引いています、桃太郎より馬が主役です。
背景の馬は、躍動感いっぱいに描かれています。
桃太郎が、鬼退治に徒歩ではなく、馬に乗って行った発想に驚きます。
願主は、那須村松子坪の人見鉄太郎氏(明治35年2月18日奉納)です。
日中戦争から帰還しての奉納もあります。
馬は帰還できず、
玉田生駒神社には馬の武運を祈る奉納、
唐滝沢の馬頭観音堂には「殉国 愛馬の碑」、
羽田の世観音堂には「征馬の碑」があります。
表彰状も多いです。
<屋根替記録>
奉納板に記された屋根替の記録を拝見し、書かれた内容を起こしてみました。
東北新幹線の新設に当たり、電力の供給を電源開発の沼っ原発電所から黒田原変電所へ通電することとなり、
国鉄側と協議の結果、六斗地、宇田島、室ノ井経由で高雄股川を越えて上半俵地内に入り、
椿坂より力ノ下を経て、三ヶ字共有のアタゴ棟境内が鉄塔敷地の候補となり、
(注:三ヶ字とは上半俵、下半俵、藪中と思われます)
三ヶ字として再三集会を開き協議の末、国鉄の一大事業でもあるので協力しようと話が煮詰まり、
その譲渡代金で、観音様の屋根替を行ったと書かれています。
来る途中で見た送電塔が沼原から送電されて東北新幹線を動かしているのか、
新幹線に乗ったら思い出すことにしようと思いました。
震災で、沼原発電所の調整池にヒビが入って、水抜いて修復工事で発電停止していたけれども、
新幹線にも影響あっただろうなぁ。
<到達困難!>
馬廻塚への到達は、とっても難しかったです。半俵の公民館を起点に、あっち行って、こっち行って。
リネアの前を何度も通過してパン買ったり。繭の里に突入しちゃったり。
生駒大神の大きな碑を見て、あれ、ここは室野井だし。
清水屋旅館の看板見て、あれ〜来すぎたわで戻り。
見つからないから、義経の阿久戸の岩屋見に行ったり。
3回目の訪問・探索で、半俵は、ほとんどが秋元さんと人見さんの家で、もう、
秋元さんか人見さんに聞くしかないと思いましたが幸運にも到達できました。
半俵公民館近くに、倒壊して久しいと思われる灯籠がありました。
馬廻塚への起点かな?怪しい。近くには念仏供養塔もある。
馬の往来には厳しいと思われる細い道(カーナビに出てこない)を行くと、古い石仏群が現れました。
石仏群には赤い彩色が残っており、馬の往来が途絶えてさほど時は経っていないだろう、
この道で間違いないと確信。
すると馬の水飲み場がありました。本当はゴミ燃やす囲いです。
しかし、この先に違いないという期待感から、馬の水飲み場に思うことにします。
小高い山があります。送電塔が見えます。小山に着くと、階段があるではありませんか。
階段を50段ほど登り、さらに最後の10段登って観世音に到着。
あった!「馬巡墳」碑が!馬廻塚に到着しました。
こんな急階段、馬が上り下りできる?転けたら数珠繋ぎに馬倒しになります。
探したら、迂回路みたいな踏み跡もありました。
小山の上にしては、境内は平面で、広いです。
那須与一の愛馬「鵜黒の駒」の霊を弔ったと伝えられる観音堂が2つあります。
人間の墓が複数あって、どれが本物か議論ありますが、馬の墓がどちらかなんて、
さすが「鵜黒の駒」といったところでしょうか。
大田原市練貫の鴻巣馬頭観音堂(←霊を弔っているだけかな)
那須町半俵の馬廻塚馬頭観音堂(←こちらが本命かな)
鴻巣馬頭観音堂は鴻巣公民館の脇にあり、バス停「鴻巣公民館前」目前です。
現在の観音堂は天保10(1839)年に再建されたものです。
那須与一の愛馬「鵜黒の駒」は、まるで鵜のように真っ黒の毛色であったため、この名があるといいます。
「鵜黒の駒」の出生地が「駒込の池」(鵜黒の柵)と伝えられています。
那須郡誌(大正13年)によれば
「駒籠の池の中央に小島があった。
ある日、牝馬が崖上より小島へ墜落した。後脚を挫き、放牧せざるを得ない。
那珂川の牛居淵より鵜の一群が飛んできて、群の中の巨大な鵜が馬に戯れて名馬を産んだ。
長谷田次郎左衛門親綱は高舘城那須太郎資隆に献じた。この池は駒籠池と称せられた。」
「駒込の池」は昔はもっと広大な池で、吊り橋がかかっていたとのこと。
昔本にも旧跡として掲載されています。
鵜黒の駒の出生伝説は、那珂川上流の松子にも「烏石」が伝えられています。
(説明板)
「駒込池
長谷田の駒込池は、水田灌減のために設けられた溜池である。
この辺りは、古くから鵜黒の冊と呼ばれ、那須資隆の居城高館の近傍にある要衝地であった。こゝに野馬を追い込めて囲う牧馬があり。那珂川の牛居渕に川鵜の大群が棲んでいた。
ある日鵜の大王と一際すぐれた駿馬の仲から子馬が誕生した。漆黒の毛並みの美しく飛鳥のように素早い世にも稀な名馬で、「鵜黒の駒」と名付けた。
元暦二年那須与一宗隆は、屋島の戦いで、この馬に乗り、なぎさに駒を進め、見事に扇の的を射当て、「天下一の弓取りよ」とほめられた。
なお、このお話は、黒羽の地名考説の一つとなっている。
大田原市」
近くの温泉
五峰の湯(HP)
加温、循環ろ過、塩素ですけど、ぬるすべ〜。露天風呂から五峰のグッドビューが展開されます。
温泉スタンドあります(塩素消毒あり)。足湯は無料です。
松子の集落に安産祈願の松子地蔵堂があり、裏の細い道に馬頭観音や庚申供養塔があります。
裏手の北側の道を西に800mほど行くと谷。そこからは立ち入り禁止で近づけません。
川岸の雑木林に黒い大きな岩があり、それが「鵜黒の駒」の出生伝説「烏石」。
「那須の烏石、那須の殺生石、湯津上村の笠石」は那須三石として、昔の温泉本に紹介され有名です。
那須高原リバーサイドパークグループの那須国際射撃場(那須観光やなも経営)があり、
発砲音が鳴り響いているので早々に退散しました。
那須高原リバーサイドパークのサイトを見ると「新那須温泉
からす石 建設予定」とあります。
「からす石」の文字に遭遇して、とりあえず満足。
10年ほど、この掲示のままなので、建設は具体化してはいないようです。
サイト(HP移転)
那須高原リバーサイドパークのサイトから
「新那須温泉からす石建設予定」が消えました(2018年)。
那須天然温泉・サウナ「弓乃湯」が2023年にオープンしました。
生駒講が各地にあり、玉田の生駒神社が本宮です。
那須町の室野井、上半俵の馬巡塚、那須塩原市の鳥野目には、「生駒大神」碑があります。
那須塩原市の井口には、生駒神社があります(探せば、もっとあると思います)。
道標に刻まれるほど栄えていた玉田生駒神社です。
栃木の馬めぐりでは、ここははずせないと思います。
看板は「勝善神社入り口」とあります。
参道入口の標柱は「日本三勝善の一、玉田勝善神社」、参道を進むと「生駒神社」標柱があります。
灯籠には馬が刻まれています。
勝善水の井戸がありますが、封鎖されています。
矢板(昭和4年)、片岡(昭和14年)、菊池運送店(昭和2年)、宇都宮(昭和3年)など、馬車組合からの絵馬が奉納されています。
「片岡馬車組合」の絵馬は軍馬武運長久とあります。戦争で徴用された馬の武運を祈願したのでしょう。
生きて帰れなかった馬たちの碑が栃木県内で見かけます。
近くの温泉
矢板玉田温泉(日帰り不可となってしまいました)
松島温泉(HP)が近い、ぬる湯のぬるすべ〜。
木須館跡(西之内)の縁に正観音堂があります。
羽田村の正観音堂と十王堂は、野間村白湯山西光院が別当をしていた堂宇(野間郷土誌による)でした。
正観音堂の横に、征馬之碑があります。
碑に刻まれた文字によると、
昭和12年7月28日に第20師団に動員下令された金田村大字羽田の応徴馬の碑で、
応徴馬名と畜主名が刻されています。びっしりと書かれています。
徴収されてすぐの昭和12年10月20日に建てられています。
宇都野にも出征馬の愛馬之碑があります。
源平合戦で義経を助けて亡くなった佐藤兄弟の墓碑の手前、角折坂の上に、「軍馬忠霊之碑」があります。
大きな碑があると、信仰あつかった湯殿山碑かと思うと、戦争で挑発された馬たちの碑だったりします。
たいていは、二十三夜塔や庚申塔、馬頭観音群と同じところ、地元の信仰の地に建てられています。
会津西街道では、会津藩が決めた宿駅をつなぎながら荷物をその度乗せ換えていました。
一方、仲附は一人で5〜7頭の馬を引き、宿駅で荷物を乗せ換えず、目的地まで安く、荷物も傷めず運びました。
その仲附が利用した旅籠です。
「仲附の旅籠」は、明治元(1868)年に会津西街道藤原宿に建造された建物を
鬼怒川野外公園の一角に移転したもの。
会津西街道を往来する荷物運送の収入は、藤原の人たちの主要な収入源で、人びとは馬を大切にしてきました。
(説明板)
「日光市郷土資料館 仲附の旅籠
この建物は、会津西街道の藤原宿で明治元(一八六八)年に建築された仲附の旅籠を、昭和五十六年藤原町がここへ移築転したものです。
江戸時代、会津西街道の仲附は信州の「中馬(ちゅうま)」と並ぶ特殊な輸送手段でした。
仲附輸送の特色は、会津藩が設置した宿駅を継ぎ送るというしくみでなく、一人で五〜七疋の馬をひき目的地まで附け通すというところにあり、輸送も早く、運賃も安く、荷物のいたみも少ないという便利なものでした。
幕末、藤原宿には五軒の仲附宿がありましたが、この宿は「加登屋(かどや)」の屋号で呼ばれ常時十人前後の仲附が宿泊していたといわれます。
なお、この建物は、持主であった斎藤敬作氏が、藤原町に寄贈したもので屋根はかやぶきでした。
・建 物 木造平屋
・面 積 159.20?(48.15坪)
・平面図
平成七年一月 日光市教育委員会」
目の前の温泉
鬼怒川公園岩風呂 ※閉館しました。
鬼怒川温泉を代表するところですが
「週一回の清掃後、お湯はりを補うため、浴槽の3分の1程度加水しております」
某ホテルは7割加水なんで、ましです。
鬼怒川温泉は、仁王尊(記録)が一押しです。
新藤原駅の手前、国道121号沿いの通称「馬捨て場」と呼ばれた所にある勝善碑と馬頭観世音の碑群で、
54基が集められています。
元湯通りは、モウキ山がおおいかぶさっている「大へづり」であり、ここでは数多くの馬が命を落としました。
「へつり」の難所で事故死した馬を供養するため、死んだ馬の捨て場であった鬼怒川の断崖付近に
1頭ごとに碑を建てたといわれています。
昭和36年に藤原の縁故者によって現在地に集められ整備されました。
馬がいかに大切にされ、活躍していたかがうかがえます。
「藤原町史(通史編)」「藤原町のおもしろ地名」「藤原町の歴史と文化」「藤原町の文化財」「藤原町の民話と旧跡」「会津西街道をたずねて」(藤原町観光課発行)を参考としました。
鬼怒岩橋から龍王峡ライン有料道路に向かって料金所の手前にならんでいます。
鬼怒川温泉オートキャンプ場入口前です。
文化財に指定されている馬頭観世音碑群ほどではありませんが、圧巻です。
目の前の温泉
鬼怒川温泉オートキャンプ場
上滝乃湯 HP
鬼怒川観光開発の源泉ですが、
公営の露天風呂でも加水ばりばりなんで、加水していないのは○でしょう。
いろは坂の入り口手前に「馬返し」があります。
馬返しの先、いろは坂の下りきった所に「是より二荒山神社境内」の碑があります。
いろは坂も、いろは坂の上も、この碑から上は、二荒山神社の境内です。神領、広大!です。
「馬返し」の地名は、地形的なものに加えて、宗教的な由来によるものです。
馬はいろは坂への乗り入れが禁じられ、
女性は馬返しの先の男体山遙拝所の女人堂までいくことが許されました。
女人堂から上は女人禁制(馬は馬返しまで)でしたが、
ある巫女が、神に仕える身だから山に登ってもOKと思いましたが、
身がすくみそのまま石になってしまいました(中宮祠鳥居横にある巫女石)。
馬は、「是より二荒山神社境内」の先に進むと、石になってしまいます。
(巫女が石になるんだから、馬も石になるでしょう)。
明治4年「女人登山不苦旨公布」により、女人禁制が解かれ、この公布のおかげで、
馬も馬返しから先へ進んでも石になるおそれはなくなりました。
車も石になる心配もなく、神領に入っていくことができます。
※奥日光湯元での女人禁制については、別途記述。
近くの温泉
どこも良いけど、あえて1つ挙げると、歴史的経緯から、スパビレッジカマヤ(HP)。
オープン日、日帰り入浴一番のり記念もこめて。
(※蛇足 湯西川の水の郷で、オープン一番乗りで、今後顔パスで無料と言われたけど口約束だからなぁ。)
那須町室野井に、馬頭観音群等があります。
以前は2又路のところに、大きな生駒大神の碑だけは見えていましたが、現在は藪が茂り、全く見えません。
・生駒大神(昭和15年11月)
一番大きく一番新しいものです。
・馬頭観世音道標馬頭観世音道標
安永7(1778)年11月
「右 奈す」 →金ちゃん温泉を通り南が丘牧場の脇に出ます。
「左 板室」 →柳沢鉱泉清水屋旅館(閉館)、報恩温泉(閉館)に出ます。
・馬頭観音
大小の馬頭観音群。石仏は折れたり、転がっています。赤い彩色がまだ残っています。
近くの温泉
金ちゃん温泉(再開 HP) 猿の侵入を防ぐ囲いがなければ、もっと眺望良いのだけれども。
柳沢鉱泉清水屋旅館(閉館) 湯の表面に膜はってます。
報恩温泉(閉館) ありし日の怒濤の温泉
湯本の有志が大正の初めに、同じ石で、神馬と聖徳太子像をつくったもの。
聖徳太子と馬です。もう一度言います。聖徳太子と馬です。
震災で、足が折れ、首が折れ、バラバラになりましたが、あっという間に修復され、元通りのになっています。
大事にされている馬なんですね。
近くの温泉
選択肢多し。鹿の湯、雲海閣、老松温泉など猛者がいっぱい、御用邸の源泉使う「いこいの家」もあるし。
1つあげると、松尾芭蕉に敬意を表して「清水屋」(HP)。
「当旅館は芭蕉一行が2宿したと伝えられる「和泉屋」敷地の一部であり、句の由来でもあります」
HPでの記述は間違いではないものの補足が必要で、説明が長くなるので、別途解説します。
「湯をむすぶ誓も同じ石清水 芭蕉」と刻まれた板が浴室に向かう階段下に祀られています。
「和泉屋」「清水屋」の屋号は、「湯をむすぶ誓も同じ石清水」の清水に由来します。
黒田原駅前に那須駒像が設置されています(2011年11月3日に除幕式)。
地域に埋もれていた石像が修復後金色に染めら町商工会職員の手で復活したとのこと。
(碑文)
「那須駒
明治三十年代から昭和四十年代(途中廃止、復活あり)まで、黒田原駅北側に馬市場が存在しました。
四月に三日間に渡り、農耕馬を中心に競り市が行われました。ここでは良馬が取引され、出場頭数も全国二位となる等、多くの方で賑わいました。
那須駒とは馬の種類ではなく、市場のある地域産馬を総称して名付けられたものです。
黒田原地域は、開拓地としても馬と古くから共存し親しまれており、その輝かしい史実と希望ある将来へのシンボルとして設置しました。」
近くの温泉
一時期賑わった黒田原温泉がありました。現在の那須町役場がその所在地跡です。
黒田原温泉の旅館のひとつ、若松屋(現:足利銀行黒田原支店)があります。
黒田原温泉の木管が、那須町芦野の那須歴史探訪館に収蔵されています。
蔵から出して展示しておきますと言ってくれたので、今は展示しているかな?
展示していなくても、黒田原温泉のことがわかります。(別途記述)
昭和12年に日中戦争が始まると、農家で飼っていた馬は徴発され、戦争で死んでしまいました。
その馬を供養するために建てられたのが「愛馬之碑」です。
表には「支那事変殉国 愛馬之碑」と刻まれ、裏には22頭の馬の名前と馬齢、畜主の名前が刻んであります。
大田原市羽田にも、日中戦争で徴発された馬々のために征馬之碑が建てられています。
馬頭観音堂は、寄付者名板によると平成14年に改築されています。
観音堂の脇には馬頭観音碑がありますがその数がすごいです。数えてみたら58基ほどありました。
<庚申塔>
右端に庚申塔もあります。
近くの温泉
接骨木のピラミッド元氣温泉
電子工学で数々の発明をし、叙勲を受けられたオーナーが会社経営を退いてオープンしたピラミス。
B級ワールド爆裂ですが、シャワーやカランも「ピラミス源泉」使用で温泉はA級です。
たとえばですね、普通は脱衣所にある栃木県の浴用許可証が、地番表示じゃあるまいに、玄関の外!
オーナーの固定観念にとらわれない発想(別の表現では、むちゃくちゃとも言う)に触れると、
気づきを教えられます。
那須野が原公園オートキャンプ場(接骨木)を利用した方によると、こちらもピラミス源泉使用で、
キャンプ場利用者に限られますが入湯税のみで入浴できます。
かつて塩原温泉の交通機関だったトテ馬車。
交通機関としての役目は終えましたが、現在は観光遊覧馬車として運行しています。
車も敬意を払って、トテ馬車は悠然と進みます。
ご利用は、大脇観光トテ馬車店です(2018年を最後に運行は終了しました)。
2025年には、観光庁の事業の一環といて、運行日限定で運行されました。
<交通機関の証>
明治の頃の那須湯本案内の絵図ですが、こんな距離の間に、トテ馬車が4台も描かれています。
<交通機関事情>
与謝野晶子の「春泥集」(以下卅五首塩原に遊びて)を見ると、
「知らぬまに酒たうべたる御者ありて田舎の馬車もをかしくなりぬ」
運転中に勝手に飲酒する飲酒運転のトテ馬車!
「前の馬車煙草のけぶり三筋立て霧ふる山の塩原に入る」
塩原に入る時、前を行くトテ馬車では3人が喫煙。
煙草の煙の三筋が見える距離間隔での運行です。
「大鏡たばこの火をばさやかにもうつす夕となりにけるかな」
トテ馬車に乗って塩原から帰る時、喫煙車両だったようですね。
「髪長き人のうれひに似たる石青し男の石はましろし」
当時は天狗岩の下に人面石がごろごろたくさんあって、奇勝でした。
天狗岩の下の退馬橋は、馬が奇岩に驚いて退くとの意味。
退馬橋は現存せず、人面石はありません。
<トテ馬車のトテ〜、トテトテトテ〜♪>
与謝野鉄幹
「あはれなる馬車の角ぶえ塩原の荒き岩間をめぐりつつ吹く」
斉藤茂吉
「とうとうと喇叭を吹けば塩はらの深染の山に馬車入りにけり」
近くの温泉
温泉地では塩原温泉が一番好きです。様々な魅力を秘めていて、奥深いです。
自分で好きなところ見つけるのも良いでしょう。
下野新聞にインタビューを受けたこともありました。
八峰苑が更地になって、残念至極です(追悼)。
井口の生駒神社は、明和年間(1764年〜1772年)に矢板市玉田の生駒神社を勧請し祀ったものです。
神社脇には、馬頭観音や庚申塔などの石碑が多数あります。
<絵馬> 那須塩原市文化財
祠内に那須塩原市指定文化財の絵馬があります。
「絵馬の奉納年月は文化8年(1811)8月、作者は野川守盈とされる。
図柄は源平合戦の一つ「一ノ谷の戦い」(1184)で平家が破れ、波打ちぎわで熊谷直実が
平家の若武者平敦盛を海上より招きかえす平家物語の有名な場面である。」(那須塩原市HP)
大きい絵馬なので驚きました。
「狩野村 奉生駒神霊 大字井口鎮座」
足尾権現のお堂の後ろに、「支那事変 出征軍馬之碑」「馬頭観世音」碑があります。
出征軍馬之碑の裏には、馬の名前が刻まれています。
表には、宇都宮連隊区司令官下山源平書と刻まれています。
馬が大事にされていたことがうかがえます。
御料牧場の構内を横断する道路があります。一般通行できるのですが、構内は停車禁止です。
踏切のように、停まらずに一気に通過する必要があります。
高根沢町の温泉
元気あっぷむら(HP)が近いですが、ちょっと足を延ばして、東雲ゴルフクラブの日帰り温泉が(HP)一押し。