Discover 栃木 温泉文化遺産(温泉文化史)
 
 喜連川・氏家の旧蹟/喜連川温泉

 【喜連川】
  ○ 喜連川宿         別頁
  ○ 大手門          別頁
  ○ 足利家歴代墓所(龍光寺) 別頁
  ○ 寒竹囲          別頁
  ○ 御用堀          別頁
  ○ 喜連川宿本陣/脇本陣   別頁
  ○ 足利氏代国朝と母の墓(レン光院)別頁
  ○ 野口雨情の詩碑(レン光院)別頁
  ○ 高塩家(ヒロの生家)   別頁
  ○ 雨情詩碑(道の駅)    別頁
  ○ 若山牧水と喜連川     別頁
  ○ 高塩背山         別頁
  ○ お丸山公園頂上部     別頁
  ○ 牛街道

 【早乙女】
  ○ 早乙女坂古戦場
  ○ 石碑(弥五郎坂)
  ○ 旧奥州街道
  ○ 喜連川人車鐵道      別頁

 【氏家】
  ○ 雨情民謡詩(さくら市ミュージアム)別頁
  ○ 勝山公園/勝山城跡
  ○ 高尾神社境内几号水準点
  ○ 大黒塚几号水準点
  ○ 五行川水源
  〇 長久保駅

 【塩原】
  ○ 塩原古町温泉「御所の湯」 別頁
    ・強弓の茂氏公      別頁

 【池之端】
  ○ 喜連川藩上屋敷跡     別頁


早乙女坂古戦場 さくら市早乙女1761

 天文18(1549)年に、この坂で那須氏と宇都宮氏の戦が行われました。
 宇都宮氏が有利でしたが、那須氏側の「鮎ヶ瀬弥五郎」が放った矢が
 宇都宮氏の大将の急所をとらえ、戦況が一変し、那須氏が勝利しました。
 鮎ヶ瀬弥五郎は、敵の大将を弔う石碑(市指定伝鮎ヶ瀬や五郎の墓および五輪等)
 を建てたと伝わります。そこから「弥五郎坂」と呼ばれるようになりました。
 (さくら市ホームページから適度に縮めました)←記載内容が消滅

(説明板)石階下左
「古戦場
 天文十八年(一五四九)、那須氏、喜連川塩谷氏五〇〇余騎と宇都宮尚綱率いる宇都宮軍二〇〇〇余騎とが戦った古戦場で、激戦の末宇都宮軍は喜連川軍の鮎瀬弥五郎実光に背後から大将の尚綱が射たれ退散したといわれています。」

「松尾弥五郎博恒墳墓」石階下右

(説明板)祠横
「早乙女坂古戦場の跡
 早乙女坂は、下野国の北部(塩谷・那須)と中央部の接点にあり、戦国時代に、下野一円の領国経営を望む宇都宮氏にとって、早乙女坂を抜き喜連川を治めることは、北部支配への橋頭ほ(保)を確保する上で最も重要な課題であった。
 このため、早乙女坂をめぐる攻防は幾度かくりかえされたが、その中でも、天文十八年(一五四九)の戦は、宇都宮軍の大将尚綱が喜連川方の助っ人、鮎ヶ瀬弥五郎(左衛門尉)に射殺されるという大激戦であった。
 弥五郎の働きによって、喜連川城下のピンチが救われたため、喜連川領民は万こう(腔)の感謝を込めて早乙女坂を、弥五郎坂と呼ぶようになった。
 今、この地には、宇都宮尚綱のものと言われる供養塔が建ち、古戦場の跡を示している。」

    

    


石碑(弥五郎坂)河東碧梧桐句碑 さくら市早乙女553-12

 弥五郎坂にある2つの石碑です。
 1つは明治13(1880)年にう回路ができたことを記念して明治16(1883)年に建てられた碑で、
 もう1つは河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)の
 「阪を降りて 左右に藪あ里 栗落つる 碧」と刻まれた歌碑です。
 どちらもさくら市指定文化財です。

(説明板)
「碧梧桐句碑
 「阪を下りて左右に藪あり栗おつる」 碧梧桐は正岡子規の門下の秀才で俳句界で活躍した人で知られています。この句は弥五郎坂を越え、喜連川を一望に荒川の清流を眼下にする大桜の下に一休みした時の作です。」

     


旧奥州街道

<きつれがわ奥州街道案内図>

 お丸山にある「きつれがわ奥州街道案内図」です。
 高塩背山の墓も記載されています。

   

<旧奥州街道>(さくら市指定文化財)

 弥五郎坂の途中から山林内に入っていく旧奥州街道(市指定文化財)は、
 標高差20メートルの急坂で長らく難所とされ、明治13(1880)年にう回路ができました。
 落ち葉で埋め尽くされた古道です。
 (参考 さくら市観光ナビ「奥州街道史跡めぐり」)
  
      

 2019年6月に訪問すると、古道の舗装が見えるほどに、きれいに整備されています。
 ベンチもしっかりと見え、座ることができる状況です。
 舗装道路だったと今さらながら気づかされました。(車は通行止です)

     

(説明板)
「史跡奧州街道(古道)
 慶長6(1601)年?川幕府は全国支配のため、江戸と各地を結ぶ五街道の整備を始めた。奥州街道は、慶長9(1604)年、東山道(関街道)に代わり五街道となり、奧州の諸大名の参勤交代や、奥州ニ江戸を結ぶ、文物交流の中心的役割を果たした。奥州街道は、日本橋から宇都宮宿までは日光街道と重複し、宇都宮宿から分岐して白河へ向かう。さくら市 には、奥州街道 のほか、会津中街道、会津西街道、原街道の結節点となり、交通の要衝地として栄えた氏家宿 と、喜連川公方の城下町でもあり、また、あゆの寿司で全国的に名を馳せた喜連川宿があった。この古道は、たびたび山腹が崩落するなど、難所の一つであったため、明治13(1880)年迂回路が開削されたことにより、往時の姿をとどめている。 さくら市指定文化財」

     

<高塩背山の墓>

 解説はこちらで記載

     

     

     

     

愛宕山神社/羽黒山神社> さくら市早乙女312

 奥州街道古道沿に庚申塔があり、脇に墓地があります。その先に赤い鳥居。
 長い階段を登る気にならずパスしていましたが、入浴前の運動がてらに登りました。

 急傾斜の苔蒸した石階段4本を登りきると(久しぶりに足がガタブル)、
 境内正面に「愛宕山神社」、右手に「羽黒山神社」と2社鎮座しています。

    

   

 ・愛宕山神社
  社号標「奉納 改修記念 愛宕神社」

     

     

 ・羽黒山神社

    


道標「右江戸道 左下妻道」 さくら市葛城

 連城橋にある道標です。延享5(1748)年銘です。

(説明版)
「道標
「右江戸道 左下妻道」このみちしるべは、町の南端ここ葛城に残っており、近世五大街道の一つで、江戸と奥羽をつなぐ主要道だった奥州街道の名残りを偲ばせています。」

    


牛街道/原街道 さくら市上河戸

 会津藩が年貢米を江戸に輸送するために新設した奥州街道の脇街道が「牛街道/原街道」です。 
 さくら市の「たかつき」(蕎麦店:閉店)へ行く途中の県道25号に「牛街道」の表示があります。
 正式名は原街道で、坂が多く馬ではなく牛を使って運ばねばならないほどの悪路なため、
 牛街道とも呼ばれていました。
 以前は未舗装だった道が舗装されました。

       


大黒塚几号水準点 さくら市狭間田3251-13

 早乙女温泉の入口直前の国道南側に佐藤自動車工場があり、その前に大黒天が2体並んでいます。
 左の石像の台座下に几号が刻まれています。
 「明治時代の水準点」という標題の説明板が立っています。

(説明板)
「明治時代の水準点
 新旧2体の大黒天のうち左側の古い大黒天の土台に「不」の記号が刻んである。これは、明治9年(1876)7月に布達し翌8月から明治10年(1877)8月の1年間、内務省地理寮(国土地理院の前身)が東京-塩釜間の高低測量(現在の水準測量)を実施したときに高低標(現在の水準点)として利用した印である。
 当時、狭間田付近は一帯が水田で、不朽物が大黒天以外に見当たらなかったために、これを高低標とし、記号を刻んだのではないかと思われる。
 この時、東京霊岸島水位標平均潮を0mと定め、そこを起点とし、京橋、上野を経て、北千住からは奥州街道沿いに水準測量を実施した。大黒天は45番目の高低標にあたり、狭間田新田村弥五郎坂市ノ堀橋際大黒塚、標高158.0866m(521.6858尺)という当時の測量記録が明治12年6月発行の地理局雑報第14号に報告されている。」

     


高尾神社境内几号水準点 さくら市上阿久津1905

 奥州街道沿にある高尾神社の境内地に石碑群があります。
 「水神」「富士浅間尊」碑があります。

    

 二十三夜塔があり、その台石裏に几号水準点があったはずですが、コンクリートに埋もれています。
 平成25年5月移設の奉祠があり、震災で倒れて修復した時に埋もれたのかもしれません。

   


勝山公園/勝山城跡 さくら市氏家

<勝山城跡>

(説明板)
「勝山城跡
 勝山城は南北420m、東西370m、鬼怒川の段丘面を天然の要害にした崖端城である。鎌倉末期頃、氏家氏が築き、その後芳賀氏によって強固な防備が完成した。中世下野における、宇都宮氏一族の北方防衛の拠点であり、戦国時代では那須氏との激戦地となったが、堅牢な城で落城することはなかった。だが宇都宮氏が慶長2年(1597)豊臣秀吉の命で改易したのに伴い、あえなく廃城になった。
 明治以降の城跡は、特に黒須家が私財を投じて勝山城周辺の土地を購入したことなどにより、よく遺存されていた。しかし、戦後の開発の波は勝山にも押し寄せ、文化人らによる啓蒙活動や保存運動が続けられたが、ついには本丸跡も破壊された。
 しかし、これを機に本丸跡は公有地となり、初めて学術調査が行われ、大手口や土塁を復旧し、町指定史跡となった。平成5年(1993)城域内にはさくら市ミュージアムが開館し、廃城後400年を経て、勝山城は文化の拠点としてよみがえった。」

  

<明治時代の日本鉄道 鬼怒川橋梁 橋脚>

(説明板)
「明治時代の日本鉄道 鬼怒川橋梁 橋脚
 明治19年(1886)、宇都宮→長久保(さくら市)→矢板駅と続く、日本鉄道会社の鉄道路線が開通し、鬼怒川を渡る橋梁 が、国道293号線氏家大橋付近に建設されました。当時の橋脚はレンガ、コンクリート等で造られた直径約3mの円筒状のものでした。この橋梁は大水で破損して列車が不通になることが多く、多額の修理費用を必要としたため、明治30年、現在の東北線本線が建設され路線が変更、氏家駅が開業しました。
 このレンガ積の橋脚 は約4q下流の阿久津大橋付近の鬼怒川河川敷に残されていたもので、鬼怒川橋梁の橋脚部分と考えられるものです。
国道293号線氏家大橋付近に残る日本鉄道会社鬼怒川橋梁橋脚」

   

<日露戦役紀念碑 希典書/庚申塔>

     

    

<木造不動明王坐像>(栃木県指定文化財)

 光明寺の青銅造不動明王坐像を作った時の木型である木造不動明王坐像が保存されています。

(説明板)
「栃木県指定文化財 木造 不動明王坐像
 1968(昭和43)年3月12日 指定
 さくら市 蔵
 1759(宝暦9)年
 380×296×275cm
 現存する木造坐像の中で関東最大級の大きさを誇るこの像は、装身具の文様などから、光明寺の不動明王(右側写真)を鋳造する時に使った鋳型であることがわかります。一般的に鋳造後廃棄されてしまう鋳型を現在まで保存・継承しているのは、鋳造史を考える上でも大変貴重です。
 また、壊すことを前提としていたため、廃材などを組み合わせて巧みに製作されているのが特徴です。それを示すように、仏像内の支柱からは使用されていない臍穴も見つかりました。平成12年の大修理の時には、木と木の継目から墨書も発見されています。この墨書から大きな鋳型を多様な木材で作り上げたことへの難しさが垣間見られます。さらに、頭部、胸部、腹前、前膊部、膝前、腕の各部分を分離できるのは、分鋳というパーツごとに鋳造を行なうためのものと推測されています。
  さくら市教育委員会」

   


五行川水源 さくら市長久保

 昔は鬼怒川の伏流水が各所に湧き出て、これが五行川の水源でしたが、
 現在は、「市の掘用水」を水源としています。

(説明板)
「五行川水源地
 五行川は氏家町北部を水源とし、真岡を経て茨城県下館で小貝川に合流する長さ55kmの川です。その水源地は長久保とされていますが、昭和初期ごろまでは、きぬ川学院のある台地の下は湿地で、そこに地下水が押上の旧信国寺の池やその周辺からも湧き水となって流れ、台地のふもとの低湿地におよび、むかしから「中荒」の地名があります。それに長久保からも湧き水が集合して五行川の水源となっていきました。
 長久保村の古い神社は天神社の奥にある湯殿権現で水神と関係があり、水源地の祀られました。戦後、森林は開発され、鬼怒川の水量は減少し、地下水も枯れ、水源地の面影は見られませんが、五行川はここを出発点として氏家・高根沢・真岡地方の穀倉地帯を潤す「命の水」となっています。」

     

長久保駅> さくら市長久保814

 押上小学校に、長久保駅のレールと駅名表示の再現モニュメント(1990年設置)があります。

  

<国立きぬ川学院> さくら市押上288
 
   


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