Discover 栃木 温泉文化遺産(温泉文化史)
 
 天海大僧正(慈眼大師)

  ○ 天海大僧正銅像    日光市上鉢石町
  ○ 天海墓所「慈眼堂」  日光市山内
  ○ 天海僧正毛髪塔    台東区上野公園
  ○ 開山堂(両大師)   台東区上野公園
  ○ 天海影前燈籠     台東区松が谷
  ○ 天海大僧正像     川越市喜多院
  ○ 会津高田に残る天海大僧正の史跡
    ・慈眼大師御誕生地の碑
    ・天海大僧正石像
    ・護法石
    ・天海大僧正両親の墓(龍興寺)
    ・天海大僧正御手植檜
 
 勝道上人

  ○ 勝道上人像      日光市山内
  ○ 勝道上人墓所/開山堂 日光市瀧尾
  〇 延命地蔵(犬牽地蔵) 日光市本町 別頁
  〇 蓮華石        日光市花石町 別頁
  〇 中宮祠        日光市中宮祠 別頁
  〇 中禅寺        日光市中宮祠 別頁


「釋天海肖像」(「先哲像傳」徳齋原義正道 国立国会図書館蔵)
  天文5(1536)年〜寛永20年10月2日(1643年11月13日)

  

「家康天海対座図」(東京府史行政篇 第1巻 東京府 昭和10年)
 狩野探幽の画による「家康天海対座図」です。
 寛永寺子院青龍院が所蔵していましたが、戦災で焼失しています。

  


○天海大僧正銅像 日光市上鉢石町

 「磐裂霊水」(いわさけれいすい)のところに、天海大僧正銅像があります。

(案内板)
「天海大僧正(慈眼大師)銅像
 天海は比叡山で天台宗の奥義をきわめた後、徳川家に仕え、日光山の貫主となる。当時の日光は、豊臣秀吉に寺領を没収され、荒廃の極にあった。家康が亡くなると天海はその遺言を守り、久能山から遺骨を日光に移して、東照宮の創建に尽くした日光山中興の恩人である。
 天海は、寛永二十年(一六四三)百八歳で大往生した。この銅像は、日光出身の彫刻家、倉沢実の作。」

    


○日光開山勝道上人之像 日光市山内2377

 勝道上人
  天平7年4月21日(735年5月17日)〜弘仁8年3月1日(817年3月21日)

 輪王寺の表参道を行くと、輪王寺三仏堂(保存修理中)を背景にして、
 日光山の開祖、勝道上人の銅像が立っています。
 台座の黒がらす石の重量は32tもあります。
 
    

○勝道上人墓所/開山堂

    


○天海墓所「慈眼堂」 日光市山内2300

 天海の墓所「慈眼堂」(輪王寺境内)を目指します。
 3代将軍・家光廟「大猷院」(たいゆういん)の受付にて、300円を用意し
 「天海の墓所の慈眼堂に参拝したいんですけど」と告げると
 「現在立ち入り禁止となっています」との申し訳なさそうな返答。
 大震災後、個人の参拝はできなくなりました。

  大猷院
   


○天海僧正毛髪塔 台東区上野公園1 清水観音堂裏

 寛永寺清水観音堂の裏に、本覚院跡があります。案内標識が英語です。
 本覚院住職晃海僧正 (初代寛永寺執当) が天海の供養塔を、後に義海が毛髪を納めて供養。

 台東区教育委員会の説明板によると、本覚院伝来の毛髪と記載されています。
 英文の説明だと、天海の供養塔が建てられ、後に、天海の髪の束を納めるため2つ目の供養塔を建てたとあります。
 天海の髪の束って、いつ頃の髪なんでしょうね。

  A pagoda to commemorate him was built at this site,
  and later, priest of Hongakuin buit a second pagoda
  in order to house a lock of his hair.

 毛髪塔の後ろに、立派な供養塔があります。

(説明板)
「天海僧正毛髪塔(都指定旧跡)  台東区上野公園1番
 天海僧正は、江戸初期の天台宗の高僧で諡号を慈眼大師という。
 天文五年(一五三六)に奥州会津群高田郷(福島県)で生まれた。十一歳で出家、十四歳で比叡山に登り実全に師事して天台教観を学び、さらに三井寺や奈良で諸教学を学んだといわれる。のちに江戸崎不動院(茨城県江戸崎町)、川越喜多院(埼玉県川越市)などに住し、徳川家康の知遇を受けた。元和二年(一六一六)家康が没すると、その神格化にあたり権現号の勅許を計り、合わせて日光廟の基本的構想をたて造営を指導した。その後も将軍秀忠・家光の帰依を受け、江戸城鎮護のため上野忍岡に寺院の建立を進言し、寛永二年(一六二五)に寛永寺を創建した。
 寛永二十年(一六四三)に子院の本覚院にて一〇八歳で示寂。遺命により日光山に葬られ、この地(旧本覚院跡)には供養塔が建てられた。後に本覚院伝来の毛髪を納めた塔も建てられ、毛髪塔と呼ばれるようになった。
  平成十五年三月  台東区教育委員会」

     

<開門>

 普段は鉄柵が施錠されていますが、正月に寄ったら開門されていました。
 中に入って石燈籠等を確認。鉄柵は松坂屋が寄進されたようです。
 石燈籠2基は、「厳有院殿 尊前 延宝九年五月八日」「慈眼大師毛髪等寶前」と刻まれています。
 徳川家綱霊廟に奉献された石燈籠が転用されています。

    

    

    

    


○寛永寺開山堂(両大師) 台東区上野公園14-5 HP

 開山堂は、正保元(1644)年に、前年に亡くなった天海大僧正(慈眼大師)を祀る「開山堂(かいさんどう」(慈眼堂)として建立されました。
 その後、寛永寺本坊内にあった慈恵堂から慈恵大師良源の像も移し安置したため、「両大師」と呼ばれるようになりました。

     

 開山堂(両大師)の参拝は16時までです。時間になると閉門します。

  

(説明板)
「両大師  台東区上野公園十四番 輪王寺
 正保元年(一六四四)、寛永寺開山天海僧正の像を安置する堂として建立。天海僧正は慶安元年(一六四八)朝廷より慈眼大師の諡号(没後に与えられる号)を受けたため、「開山堂」または「慈眼堂」と称した。
 その後、天海僧正が最も尊敬した平安時代の高僧慈恵大師良源の像をも安置したため、慈眼大師天海とともに一般には“両大師”と呼ばれるようになった。
 天海僧正の像は木造の坐像で、寂後まもなく制作され、多くの天海像の中でも優れたものの一つ(東京都指定有形文化財)。良源を描いた「元三大師画像」は、室町時代初期の制作。優れた画風を有し、江戸庶民の信仰を受けてきた(台東区指定有形文化財)。
 また、江戸時代初期の銅鐘・銅燈籠が現存。いずれも、国の旧重要美術品である。
  平成六年三月 台東区教育委員会」

  

「江戸名所図会 東叡山寛永寺」

 「江戸名所図会」から「慈眼堂」部分の抜粋です。
 昔も今も、同じ場所にあります。
 右上に「屏風坂」下り口が見えます。現在の両大師橋の終端に当たります。
 中堂の横から慈眼堂に至る路には「此辺さくらおほし」とあります。

  

「江戸切絵図」

 「慈眼堂」付近の抜粋です。
 「慈眼堂」の横に「屏風坂」が見えます。
 「慈眼堂」の裏から「坂下門」に向かって「信濃坂」が伸びています。

  

<上野の花見>

 上野の桜は天海大僧正による発祥です。
 江戸幕府は新たに創建する寺は、官寺として関係者のみが参拝することを想定していました。
 一方、天海大僧正は江戸庶民が自由に参拝し行楽できる場所にしようと考えました。
 見立てという思想のもと、様々な名所を模した建物や景色を境内に造りました。
 そして、奈良の吉野山から移したヤマザクラを境内の各所に植えました。
 なお、格式の高いお寺の境内なので、花見は飲酒禁止、三味線などの鳴り物はご法度でした。
 暮れ六つに閉門するため、夜桜見物はできませんでした。
 明治以降、寛永寺境内は上野公園となり、桜はヤマザクラからソメイヨシノへと変わりましたが、花見の名所は続いています。

「江戸名所百人美女 上野東叡山」(豊国・国久 都立図書館蔵)

 美人は手習いの師匠、隣の少女は生徒と考えられます。
 立札には「両大師 執事」とあり、手習いの師匠等は、開山堂(慈眼堂)の門前にいます。
 手習いの師匠一行は、これから桜が満開の両大師に参詣するところです。
 少女の指差す先にいる生徒を、師匠は扇子で合図して呼んでいるようです。
 こま絵は他の浮世絵から推測すると、中央は文殊楼、左手は番所と推察します。

 他の解釈
 手習いの師匠と生徒の花見で思い浮かぶのは、手習い一行の花見行列です。
 上野は黒門から文殊楼が花見の名所でした。花見のため黒門が開放されました。
 黒門通りには「両大師」の立札が随所に立てられていました。
 手習いの師匠は、黒門前の「両大師」立札の前で、生徒たちを整列させて行列の準備をしています。
 行列は、黒門から文殊楼に向かいます。
 少女が傘を持っていればこの解釈で決定ですが、左手に持っているのかどうか。

   

「徳川時代貴婦人之圖 上野花見」(楊洲周延 都立図書館蔵)

 立札には「両大師」とありますが、場所は二つ堂前のようです。

  

「東京開化三十六景 上野花見」(三代広重)

 立札に「執事 両大師」とありますが、この場所は、両大師前ではなく黒門前のようです。
 黒門から文殊楼にかけては、花見の名所で賑わいました。
 お茶屋があり、右手の高台にも茶屋が見えます。
 参道奥左に2階建ての建物が見えます(文殊楼と推察)。
 江戸時代には許されなかった酔っ払いがいます。

  

「東京名所上野公園桜雲台西郷銅像附近之賑ひ」(土谷伝 昭和4年 台東区立図書館蔵)

 前記と同じ場所と思われる場所に立札「両大師」があります。
 昭和4年に描かれたので、黒門は円通寺に移設されており見当たりません。

   

「上野公園地」(井上安治)

 「両大師」の立札は、明治時代は、いたるところに立てられていたようです。
 他の浮世絵でも、両大師前以外の場所で見かけます。両大師は賑わっていたようです。

  

「上野両大師」(絵葉書 昭和戦前 台東区立図書館蔵)

 火災で焼失した本堂が写っています。燈籠は6基あります。
 現在は4基なので、2基が失われたようです。

  

<慈眼大師小史>

(説明板)
「慈眼大師小史
 天海大僧正(1535〜1643)は寛永寺開山、東叡・日光両輪王寺の開基であり、神儒仏の三教にわたってその神髄を会得された高僧である。
 大僧正は天正18年(1590)徳川家康公と相識り江戸幕府が開かれるや仏教による平和政治を献言し治国平点火の祈願寺として、また源平依頼の戦乱犠牲者の冥福を追善する東叡山寛永寺を勅許により寛永2年(1625)に創建して開基となった。この寺名は天台宗祖伝教大師が比叡山を拓いて延暦寺を建て国家鎮護の道場とされたことにならわれたもので関東の比叡山という意味である。
 また大僧正は将軍が江戸に住み政治の中心となったと同じく東叡山を宗教の中心地として永く泰平の基礎を確立するため正保4年(1647)後水尾天皇第三皇子尊敬法親王(後に守澄と改む)を勅許によってお迎えして輪王寺門主と申しあげ、法親王は天台宗を管領して比叡東叡日光の三山を統轄せられることとした。戊辰の役(1868)は第13世輪王寺宮公現法親王(後の北白川能久親王)のときである。
 これより先、大僧正は元和2年(1616)4月17日家康公の死にあい、遺命で葬儀の導師を勤めたが翌元和3年(1617)家康公に山王一実神道による東照大権現の神号を賜わり日光に東照宮を建てて奉祀した。日光山の今日あることは大僧正の偉業の一つである。
 その他大僧正の遺業として特筆されるものに織田信長公によって焼土となった比叡山諸堂宇の再興があり、また天海版といって珍重される大蔵経の開版がある。なかでもこの上野に桜樹を吉野山から移植されたことや不忍池を蓮の名所としたことは吾人の忘れてならないことである。
 大僧正は百八歳の長寿を保って寛永20年(1643)10月2日東叡山で遷化されたのでその御遺徳を追慕して翌正保元年に慈眼堂が建てられ、また大僧正が生前とくに「われなきあとは慈恵大
師の御影と共に天海をまもり万人に利益を授けん」と語られた因縁により慈恵大師を併せておまつりし日々不退に御供養することは変わらない。慶安元年(1648)後光明天皇から慈眼大師の謚号を宣下された。
 大僧正作の下の歌にあやかりたいものである。
  気は長く つとめは堅く 色うすく 
          食ほそうして 心ひろかれ
  長命は 粗食 正直 日湯 陀羅尼 
          おりおりご下風 あそばさるべし
 誠心もって両大師の御前にぬかずかれ 無限の福徳を得られんことを
  付記
 いま社寺で行われているみくじは慈恵大師の創作をもととし前述のように慈眼大師が慈恵大師を尊信して夢中に得たものと御伝記にある」

  

<本堂>

 元文2(1737)年に焼失し建てられた本堂は、上野戦争では焼け残りましたが、
 平成元(1989)年9月4日の火災で焼失しました。
 現在の本堂が、平成5(1993)年10月に再建されました。

   

<二つ引両>

 使われていない手水鉢(天保7(1836)年奉納)に、天海が用いた「二つ引両」「輪宝紋」が並んでいます。
 二つ引両が、灯籠、手水、瓦、柱、鰐口(賽銭箱上)などに「これでもか!」というぐらいあります。
 本堂の屋根には菊の紋もあります。

(参考)二つ引両
  天海は「二つ引両」「輪宝紋」の家紋を使用しました。
  「二つ引両」から一般的にイメージするのは足利氏であり、
  天海存命中から、足利氏系の人物ではとの風説がありました。

      

 葵の紋のある銅燈籠ですが、ここにも二つ引両があります。
 4基の銅燈籠は、大猷院(家光公)霊廟に奉納されていたものです。
 (なぜ二つ引両が刻まれているのですかね?)

    

<幸田露伴旧宅の門>

 谷中にあった「幸田露伴旧宅の門」が境内に移築されています。

(説明板)
「幸田露伴旧宅の門
 この門は明治の文豪幸田露伴(1867〜1949)の旧宅の門で、谷中にあったものを移築したものである。
 瓦葺の簡素な腕木門で、柱や梁、垂木など総て丸太造で、明治期のしもた屋(仕舞屋)の風情をよくとどめている。
 露伴は下谷生まれで、代表作『五重塔』(1893)の主人公『のっそり十兵衛』は、現寛永寺根本中堂を手がけた大工の棟梁をモデルにしたものだといわれている。
  協賛 池田建設株式会社」

   

<木造天海僧正座像> 焼失

 平成元(1989)年9月4日午前3時頃、開山堂の本堂から出火、本堂北側にある奥ノ院など約650平方メートルを全焼しました。
 上野消防署は、消防車両45台で対応と記録されている大火災でした。
 この火災で奥ノ院に安置されていた「木造天海僧正坐像」(江戸初期の作品、東京都指定有形文化財)が焼失しました。

 天海僧正座像は、東京都の文化財の指定から解除されました。
 「東京市史稿 市街篇第四」(東京市 昭和3(1928)年 国会図書館蔵)に貴重な写真が掲載されていました。

   

<両大師橋> 台東区上野公園〜台東区上野7丁目

 「両大師橋」は、JR上野駅の北側の線路をまたぐ110mの跨線橋です。
 鉄道撮影によく利用されます。

    

    

「屏風坂と跨線橋」(明治末年の上野公園鳥瞰図抜粋 台東区立図書館蔵)

 明治末年の屏風坂と跨線橋が描かれています。

  

〇ムラサキスポーツ本社 台東区上野7-14-5

 両大師橋を下りた交差点に、ムラサキスポーツ本社ビルがあります。
 ビル壁面には、大きな十字架があります。
 ムラサキスポーツの金山良雄会長は、日光オリーブの里の理事長を務めています。

  


○喜多院天海大僧正像 川越市小仙波町1-20-1

 喜多院山門右手に、「天海大僧正像」があります。

(説明板)
「天海大僧正(1536〜1643)
 喜多院喜多院第27世住職であり、会津高田(現 福島県会津美里町)出身、江戸時代初期、喜多院を復興しました。
 将軍徳川家康公の信頼あつく、宗教政策の顧問的存在として助言を行い、将軍も度々、川越城また喜多院を訪れています。
 108歳で遷化(亡くなる)後、朝延より「慈眼大師」の称号を賜りました。」

    

    


【会津高田に残る天海大僧正の史跡】
 会津美里町観光協会のサイト、現地教育委員会説明板からまとめました。

 〇 慈眼大師御誕生地の碑
 〇 天海大僧正石像
 〇 護法石
 〇 龍興寺
   ・浮身観音八葉堂
   ・天海大僧正両親の墓
   ・舜幸法印の墓
 〇 天海大僧正御手植檜

○慈眼大師御誕生地の碑 会津美里町字高田甲2742-4

 会津みどり農業協同組合高田総合支店の場所に、天海の生家である舟木家の屋敷があったとされ、
 JAの駐車場に「慈眼大師御誕生地」石標が大正13(1924)年に建立されています。
 輪王寺門跡大照円朗大僧正の筆による刻字です。
 斜め向かいの公民館前庭に天海大僧正石像が見えます。

    

(説明板)
「町指定史跡
 慈眼大師誕生の地 所有者 会津高田町 昭和四十三年二月二十日指定
 徳川家康の知遇を受け内外の政務に参画、延暦寺の復興と日光山の整備に尽力し、また寛永寺を創建した天海僧正は、天文5年(一五三六)元旦舟木景光の嫡子としてこの地に誕生した。この地は「天海屋敷」の古称で言い伝えられている。
 大正四年に歴史学者、黒板勝美・辻善之助両博士が天海の生地確認のため当地由緒地を探し求めていたところ、たまたま龍興寺墓地内から「景光」の刻印のある五輪塔二基を発見した。両親の墓がある限り天海の生地は高田であることが確認され、全国十ヶ所以上ある生地は何れも間違いであることが立証された。
 寛永二十(一六四三)年十月二日、百八才にて遷化、日光大黒山に葬られ、のちに後光明天皇より慈眼大師の諡号を賜る。
  平成九年三月  会津美里町教育委員会」

    


○天海大僧正石像 会津美里町高田甲2905-1 会津美里町天海公園

 生誕地の斜め向かい、会津美里町公民館の前庭に立つ天海大僧正の石像です。
 昭和53(1978)年に、ライオンズクラブにより建立されました。
 公民館は解体撤去され、跡地は「会津美里町天海公園」として整備されています。

(碑文)
「慈眼大師天海大僧 略伝
大師は天文五年(一五三六年)正月元日この地で生誕し十一才で龍興寺の舜幸法印を師僧と仰ぎ 佛門に入り若くして諸國の学僧に教を請い神佛儒三道の深蘊をきわめた 五十五才で天海と改名のち徳川家康は大師の人格識見の高きを知り厚く信任した 江戸幕府創設当時秀れた才能を顕し徳川三百年の礎を固めた 大師は寛永二十年
十月二日百八才遷化 慶安元年四月十一日 後光明天皇は 慈眼大師の諡号を贈られた」

     


○護法石(ごほうせき) 会津美里町高田甲2905-1

 舟木景光夫妻が子の生誕を喜び、屋敷地内に祀ったといいます。
 天海大僧正が太陽を拝んだ石とも伝えられ、「天一」の陰刻が残ります。
 2011年6月に屋根が設けられています。

(説明板)
「天海僧正「護法石」
 慈眼大師(南光坊天海)は、現在地より国道を挟んだ西側の旧舟木家(天海屋敷跡)に産まれたとされる。この石は、天海の両親が、伊佐須美神社奥ノ院であった現在の清龍寺文殊堂に誕生を祈願し、無事産まれたことを記念して、屋敷地内に建立したと口承されている。また、天海が日輪を拝んだ遥拝石とも呼ばれ、「天一」と陰刻されているが、詳しいことはよく分かっていない。ちなみに、「護法」とは仏法を護ることをいう。
 本町に残る慈眼大師に関連した史跡・寺院等では、文献や古記録・古文書等で明らかなもので、天海屋敷跡、龍興寺・同寺内両親の墓、浮身観音堂跡、清龍寺文殊堂、伊佐須美神社境内天海僧正手植檜があげられる。
  平成十三年十一月  会津美里町教育委員会」

    


○道樹山 龍興寺 会津美里町字龍興寺北甲2222-3

 舟木兵太郎(天海大僧正)は、天文5(1536)年元旦に生まれました。
 8歳(11歳の記載もあり)の時、高田城の筆頭家老である父が暗殺され、
 仏門の道へと飛び込み、その際に出家したのが、龍興寺であるといわれています。

 11歳の時に出家し『随風(ずいふう)』と法名を与えられました。
 (54歳の時に『天海』と名を改めるまで、随風という法名で活動)
 14歳のときに諸国に修行に出て、
 下野国宇都宮の粉河寺では僧正皇舜(こうしゅん)を師として教えを受けました。
 1560年には足利学校に入り、4年間学びます。

 「湯殿山百度供養」がありました。

     

<浮身観音八葉堂>

 龍興寺本堂の前に「浮身観音八葉堂」が建てられています。
 「永禄2年(1559)に船木兵太郎(後の天海大僧正)が12歳の時、
  霊夢によって浮目というところの水田より土仏観音像を発見。
  後にこの土仏を模して木造の観音像をつくり、胎内に土仏を納め祀ったとされています。
  御詠歌「浮き身をば 助け給へや観世音 みちびき給へ みだの浄土へ」」
 (会津美里町HPより引用)

(説明板)
「会津三十三観音巡禮礼所番外
 浮身観音 略縁起
 ご本尊十一面観世音菩薩は慈眼大師天海大僧正 (幼名 舟木兵太郎、得度名随風一五三六ー一六四三) が幼少の頃、漆原と永井野の村境字浮目の地より感得した一寸八分の観音像である。生来、聡明で純心な紗弥(少年僧)随風は師僧の舜幸法印 (当寺二十九世) に従って修行していた時――汝、一心に称名せよ、我れ必ず富貴延寿を成満せん、善願むなしからず月の影に添うが如し――との観音の霊告に、日夜肌身はなさず一心に念持した。
 随風は、のちに名を「天海」と改め徳川家康公より三代にわたる指南僧の大任を務め百八才の大長寿を全うされた近世の名僧である。
 小観音の尊像は随風が比叡山・奈良興福寺等へ遊学修行に出立の折、篤信の母上に留めおかれ持佛堂 (浮身殿) の建立と共に永禄二年 (一五五九)佛師浄林によって御丈一尺八寸の観音御胎内に奉籠された。
 霊験あらたかな、この観音を人々は「浮身観音」と尊称し近隣講中の信心にささえられて今日に至っている。
    ご開帳祭礼旧九月十六日    .
 ご詠歌
 浮身をば たすけ給えや 観世音 みちびきたまえ 弥陀の浄土へ
   龍興寺 浮身伝記」  

    

<天海大僧正両親の墓> 会津美里町字龍興寺北甲2222-3(龍興寺内)

 「天海僧正両親の墓」町指定史跡(昭和43年2月22日指定)。
 「墓地内に五輪塔2基がある。大正4年に黒板、辻両博士の調査で発見確認された。
  当寺は天海縁の寺であり、また天海誕生地と伝えられる場所も近くにある。」(説明板より)
 2基の五輪塔と、その間に、後に建てられた「慈眼大師両親墓」など2本の石柱があります。
 五輪塔には「景光」の名が微かに残るとありますが、読みとれませんでした。

     

<舜幸法印の墓>

 龍興寺境内、八葉堂の南側にある歴代住職の墓域です。
 5基並ぶ宝筐印塔の中央が、天海大僧正を得度させた第29世弁誉舜幸法印の宝筐印塔です。

    


○天海大僧正御手植檜 会津美里町宮林甲4377

 伊佐須美神社本殿の東側に、天海大僧正が永禄元(1558)年に植えたと伝えられる
 「天海大僧正御手植檜」があります。

     

   


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