Discover 栃木 温泉文化遺産(温泉文化史)
 
 これより滝尾道


滝尾道

 道標「これより滝尾道」がいい雰囲気。滝尾道には、昌源杉の大木が連なります。

    

  

「日光山志」(植田孟縉 文政7[1824]年)

 「瀧ノ尾」が記載されています。
 石畳の瀧尾道は、昔ながらのようです。江戸時代の絵では、杉は大木に描かれていません。

  

北野神社>

(説明板)
「北野神社
 学問の神、菅原道真(天神さま)を祀る。寛文元年(一六六一)筑紫安楽寺の大鳥居信幽が勧請したものである。祭日は8月25日。
 鳥居や祠の奥の巨石に天満宮の梅鉢紋がみられる。」

     

手掛石>

(説明板)
「手掛石
 昔、滝尾神社の女神、田心姫命が、お手を掛けたと伝えられることから「手掛石」と呼ばれている。学問の神、菅原道真を祀った北野神社に詣でた帰りにこの石に手を掛けて祈願すると、字が上達するという信仰がある。」

   

神馬の碑>

(説明板)
「神馬の碑
 慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦いの折り、徳川家康が乗った名馬の碑。家康が亡くなった後も、元和三年(一六一七)から寛永七年(一六三〇)に亙たる十四年の間、
東照宮に御神馬として奉仕した。
 延宝六年(一六七八)梶定良の建立。由来の碑文が刻まれている。」

     

「日光山志」(植田孟縉 文政7[1824]年)

 御神馬が記載されています。

  

大小べんきんぜいの碑>

(説明板)
「大小べんきんぜいの碑
 古くは、このあたりに栃御門(桜門)、下乗石、木の鳥居などがあり、これから先は滝尾神社の聖域に入るので、大小便を禁ずる碑が立てられた。
 庶民にも読めるようにと、「大小便禁制」のうち大小のほかは、「平仮名」で書かれているのが珍しい。」

     

滝尾高徳水神社>

(説明板)
「瀧尾高徳水神社由来
 この社は、奥吉野(奈良県吉野郡東吉野村)の水の宗社 丹生川上神社の御祭神罔象女神の御分霊を祀り、天照大神の姉君として水に関する一切の御親徳を授けられた神であります。
 この社は、ときの栃木県知事 横川信夫氏により昭和五十二年十一月二十六日県内藤原町高徳に創建されましたが、県道拡幅のため平成十年六月二十七日この地に遷座され災害防止・開運の神としても崇敬されています。」

     


白糸の滝

 明治時代の日光案内本には、白糸の瀧が素麺瀧として紹介されています。
 一方、これは誤りとする案内本もあります。こちらで検証
 石地蔵がおられますが、そうめん地蔵ですかね?

 大正五年九月七日大正天皇御観瀑の碑があります。
 駐日米国公使ジョン・K・エマーソン氏(1908〜1984)の記念碑があります。

(説明板)
「白糸の滝
 天狗沢にかかる名瀑。高さ約十メートル。弘法大師修行の場と伝えられる。
 文明十八年(一四八六)京都聖護院の同興准后が日光を訪れ、その時の紀行文「廻国雑記」に和歌が詠まれている。
  世々を経て 結ぶ契りの 末なれや この滝尾の たきの白糸」
 
     

    


開山堂

 立派な石燈籠が1基あります。

(説明板)
「開山道(重要文化財)
 堂内には、約四・五米の地蔵菩薩及び日光開祖、勝道上人とその十大弟子の木像が安置されている。上人は、弘仁八年(八一七)に八十三歳で亡くなり、この地に葬られた。毎年四月一日に開山会が執行される。
 間口、奥行きとも六間五尺(十二・三米)重層宝形造り、日光山第五十九世公遵歩法親王筆の「開先院」の額が掲げられている。」

     

養源院跡>

 養源院は、徳川家康公の側室「お六の方」(養源院)の菩提を弔うために
 水戸頼房の養母、英勝院(お勝の方)が寛永3年(1626)に建立した寺です。
 「お六の方」(養源院)は、家康公の死後、尼となるも、喜連川家に嫁します。
 寛永2(1625)年東照宮の参詣中に頓死します。
 大きい方が英勝院(墓所ではなく供養塔)、小さい方が養源院の墓です。

 養源院は水戸家の日光参拝の宿坊となります。

 元禄2(1689)年には、松尾芭蕉は、当時東照宮は一般には公開されていなかったため、
 養源院に東照宮参拝の浅草・清水寺からの紹介状を届け拝観の便宜を図ってもらいます。

    

勝道上人の墓>
 
(説明板)
「勝道上人の墓
 日光開山の祖、勝道上人は仏岩で荼毘にふされた。当初上人の遺骨は、仏岩谷の上方に埋葬されたが、東照宮鎮座のおり、開山堂が建てられ、遺骨もここに移された。
五輪塔の台石には「勝道上人之墓」と刻まれている。また、隣にある三基の墓は、上人の弟子のもの。」

     

勝道上人弟子の墓>

   

仏岩>

(説明板)
「仏岩
 頭上の岸壁に仏の姿をした岩が並んでいたのが、地震で岩が崩れて消失し、仏岩の名のみが残ったともいわれる。
 岸壁基部のくぼみには、梵天、帝釈天と四天王のうちの三体、不動明王の石造、六体が並んでいる。」

     

<観音堂>(産の宮、香車堂)

 多くの立派な香車駒が返納されており、調べてみると、
 香車堂への返納用の香車飾り駒は天童佐藤敬商店で購入できます。

(説明板)
「観音堂(産の宮) 県指定文化財
 この観音堂は、楊柳観音を祀ったものであり、別名「香車堂」「将棋っ駒」とも呼ばれる。将棋の駒の香車が戻らずに直進する駒なので、妊婦がこの駒を借りて帰り、自宅の神棚に祀ると、無事出産できるという安産信仰の社でもある。
 出産後は、借りた駒と共に新調した駒を一緒に返納するので、駒の数は増えるばかりである。」

     

    

陰陽石>

(説明板)
「陰陽石
 お産に縁のある、自然石二つからなる奇石。
 陰(女性)と陽(男性)を意味すると言われている。観音堂を訪れた人は、ここでも安産を祈願する。」

    

   


滝尾神社

(説明板)
「滝尾神社(重要文化財)
 日光二荒山神社の別宮。本宮、新宮(現在の二荒山神社)とともに日光三社権現の一つである。女峰山の女神田心姫命を祀る。
 弘仁十一年(八二〇)弘法大師が創建したと伝えられる。明治四年の神仏分離までは楼門に大師の筆といわれる「女体中宮」の額が掲げられ、仁王像が安置されていたという。正保三年(一六四六)の建立。四月の弥生祭の時には、二荒山神社から滝尾の神輿が渡御する。」

     

別所跡>

(説明板)
「別所跡
 東照宮の遷座以前、日光参詣の中心はこの瀧尾周辺であった。日光責めで有名な輪王寺の「強飯式」(山伏が、大盛りの飯を残さず食べろと責める儀式)も、
ここが発祥の地である。明治になって別所は廃絶。永正六年(一五〇九)日光に来た連歌師、宗長の紀行文「東路のつと」には、「ここより谷々を見おろせば、院々僧坊およそ五百坊にも余りぬらん。」とあり、盛時の様子が偲ばれる。」

  

「下墅國日光山之圖」(承応2(1653)年)

 「別所」や「そうめん谷」が描かれています。 

  

影向石(ようごうせき)>

(説明板)
「影向石
 影向とは、神仏が仮の姿をとって、この世に現れること。
 弘法大師(空海)が、弘仁十一年(八二〇)この地に来て、奥の大岩のあたりで神霊の降下を祈願したところ、美しい女神が現れたと伝えられている。」

   

 「日光山志「に、瀧尾霊神影向之図が掲載されています。

  

弘法大師像と祠>

   

運試しの鳥居>

(説明板)
「運試しの鳥居
 元禄九年(一六九六)に、三代将軍家光の忠臣、梶定良が奉納したもので、鳥居の額束(中央の縦の部分)の丸い穴に小石を三つ投げ、穴を通った数で運を試したという。
 御影石、明神造り。 」

    

桜門>(国重要文化財)

(説明板)
「重要文化財 桜門
 重層入母屋造総漆塗り 元禄十年(江戸時代一六九七年)に移転新築された。それ以前は正面参道石段を登る付近にあり、おなじくらいの門であった 江戸建築の重厚な建物である」(かなりかすれています)

   

拝殿>

     

唐門 本殿> 

(説明板)
「重要文化財 本殿 唐門
 本殿は三間社流れ造り。唐門は二脚平唐門、総漆塗り、極彩色。
 この建物は、正徳三年(一七一三年)建て替えられたもので周りの玉垣、石畳もその時設けられた。
 ご神体山の女峯山を遥かに拝むように本殿の裏壁には扉がつけられた造りになっていて全国でもたいへん珍しい。」

    

縁結びの笹>

 唐門の左右にあります。
 笹の葉を結ばないで下さいと注意書きあり。笹の保護、育成の為結ぶことはできません。

    

本殿>

  

無念橋> 国有形文化財

 延宝5(1677)年建造で、栃木県内最古の橋です。
 栃木県内で、国登録有形文化財の橋は、神橋とこの無念橋の二橋です。
 無念橋は、宗教的な意味の橋で、実用的な橋ではありません。

(説明板)
「重要文化財 無念橋 俗称 願い橋
 延宝五年八月教域院天佐掛替
 三本杉を通してご神体山の「女峯山」を遙拝するため、自分の身を清め俗界と縁を切ることを意味する橋であったが、いつの頃からか己の歳の歩数で渡ると女峯山頂上奥宮まで健脚で登ったことになり願がかなえられると言われるようになり、「願い橋」と呼ばれる
 江戸時代までここは日光修験の中心地であったところから修験者(山伏)達の足腰のたんれんのための修行が原因でこうした伝称が生まれたのであろう。」

   

三本杉>

 倒れた先代の御神木の木株が苔むしています。

(説明板)
「三本杉(神木)
 弘法大師が、この山で修行をした時に田心姫命が現れた場所と伝えられる。
 初代の杉は一六九九、一七四七、一七四九年と相次いで倒れ、現在の木は二代目である。倒れた親木は、そのままにしておく習わしで、今も横たわっている。
 この神木の霊験をしめす話があり、寛文七年(一六六七)鶏頭院山舜の下僕が、この神木を小さいと馬鹿にして、神罰を被ったという。」

    

     

<滝尾稲荷神社>

(説明板)
滝尾稲荷神社
 弘仁十一年(八二〇)弘法大師が滝尾神社とともに、稲荷神社も創建。祭神は倉稲魂神(稲荷大明神)。昭和四十一年九月に台風で流出したため、昭和四十三年に巴会により再建された。三月二十五日が例祭。五月二十五日の講社大祭には、多くの信者が集まる。
 昔、瀧尾上人が朝のお供えを忘れると、稲荷の神が化けて出ては、催促したという伝説が残っている。」

     

酒の泉>

(説明板)
「酒の泉
 本宮の清水(昭和二十四年の今市地震で消失)、薬師の霊水とともに日光の三霊水の一つ。弘法大師が、この泉を汲んで神に捧げたといわれている。
 この御供水には、酒の味があるといわれ、持ち帰って元水として酒を造ると、良酒ができるという。醸造家の崇敬が厚く、古くから栃木県内の酒造家たちで酒泉講が結成され、秋に祈醸祭、春に報醸祭が行われる。現在は、西神苑の「二荒霊泉」で行われる。」

    

    

子種石>

(説明板)
「子種石
 古くは、子種権現といわれた。子供が授かるように、また、安産でありますようにと、この霊石に祈れば霊験があるというので、今日でも参拝者が多い。」

     

     


滝尾神社 日光市土呂部91

 土呂部の瀧尾神社は、日光の瀧尾神社を本社としています。
 銅製掛仏は、日光市文化財です。

(説明板)
「栗山村有形民俗文化財 銅製掛仏(直径二十九センチ、円形、銅製)
 青銅の板を打ち出したもので、直径二十九センチの円形の掛仏には、寛政九年(一七九七年)の記載があり、県内でも工芸的に大変貴重なものである。
 奉納されている瀧尾神社は、日光の瀧尾神社を本社とし、田心姫命を祭神とする。
  平成十七年十二月二日 栗山村教育委員会」

    

   


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