Discover 栃木 温泉文化遺産(温泉文化史)
 
 寂光の谷

  〇 寂光の滝
  〇 若子神社
  〇 覚源上人の墓と常念仏堂跡
  〇 若子神社池石(生石)
 
 近辺

  〇 釈迦堂殉死の墓及び譜代家臣の墓
  〇 延命地蔵(犬牽地蔵)
  〇 蓮華石


寂光の滝 日光市日光

 田母沢川の支流、寂光沢にある滝で、高さ50メートル、幅6メートル、7段になって落ちています。

    

(説明板)
「寂光の滝
 高さ五十メートル、幅六メートル、七段になって落ちている。
 昔から名瀑として知られ、「布引の滝」「七滝」などの別称をもつ。
 「寂光瀑布」として、「日光八景」の一つに数えられている。」

   

「日光名勝案内記」(島村忠次郎編 鈴木角太郎発行 明32.5)
 「布引の滝」「七滝」などの別称をもつと説明板にありますが、
 「日光名勝案内記」の布引瀧(寂光の瀧)説明では、
 「世人七瀧と云は誤りなり」としています。

「新撰日光山誌」
 七滝の解説では、滝尾の白糸の滝の上流、稲荷川の水源にして
 滝泉7か所より落ち集まるをもって名づけられた滝としています。

「日光御山之絵図」
 瀧尾神社の奥に「七瀧」が描かれています。

   

「日光山志」
 7つの滝が集まっている「七瀧」が描かれています。

  

日光八景>

 正徳元(1711)年に、輪王寺宮公弁法親王は、日光山の名勝八景を撰んで、
 陪従の僧徒・坊官等と詩作をこころみました。
  小倉春暁 鉢石炊煙 含満驟雨 寂光瀑布
  大谷秋月 鳴虫紅楓 山菅夕照 黒髪晴雪

「日光山志 日光八景」

   

「日光山志 日光八景挿絵」

  小倉春暁 鉢石炊煙 含満驟雨 寂光瀑布

  大谷秋月 鳴虫紅楓 山菅夕照 黒髪晴雪

「日光山志 寂光瀑布」

  寂光瀑布 

「過眼掌記 寂光瀑」(椿椿山 江戸後期)

 江椿椿山(江戸時代後期の文人画家、渡邊崋山の弟子・友人)が寂光爆を描いています。

  

「日光名所十景之内 寂光」(正澄 大英博物館蔵)

 7段になって落ちる寂光の滝と、寂光寺が描かれています。

  


若子神社(じゃっこじんじゃ) 日光市日光2145

 弘仁11(820)年に日光を訪れた弘法大師空海が滝尾神社を建立した後に、
 寂光の滝で修業していると、夢の中で女神のお告げを受け、「寂光寺」を建てました。
 明治4(1871)年の神仏分離で「寂光権現」が廃され、寂光が若子に改められ「若子神社」となりました。
 現在は二荒山神社の摂社となっています。女峰山への登口となっています。
 若子神社に向かう途中、池石(生石)と呼ばれる巨石があります。

「日光山志 寂光」

 寂光寺境内には、「日光山志」によると、弘法自作の不動尊を祀る「不動堂」
 「寂光権現堂」(現在の若子神社)「求聞持堂」「三十番神堂」「常念仏堂」とありました。
 「常念仏堂」から「釘念仏札」を出していました。

  

「日光山小誌」(明治33年9月)

 「池の辺に芭蕉翁の碑あり 安らたふと青葉若葉の日の光 ばせお」とあり、
 以前は、芭蕉句碑があったようです。

<鳥居/社号標/石像不動尊>

(社号標)
 「ニ荒山神社攝社 若子神社
   男体山頂鎮座壱千弐百年記念
    昭和五十七年九月吉日建之」

(標石)
 「奉造立石像不動尊」(享保10(1725)年)

    

(説明板)
「若子神社
 弘仁十一年(八二〇)日光を訪れた弘法大師空海は、滝尾神社を開き、次いでこの奥の寂光の滝で修行した。
 夢の中で女神のお告げを受け、ここに祠を建てたと伝えられる。
 室町時代には、寂光寺の七堂伽藍が立ち並び、釘念仏道場として繁栄した。釘念仏のお札は、現在も輪王寺で受けることができる。
 明治以降「若子神社」と改められた。祭神は下照姫命。祭日は、十月三十日。」

   

<拝殿/本殿>

 社殿の石階下の石燈籠は、元文2(1737)年の奉納です。
 御朱印は日光二荒山神社(日光市山内)にて授与しています。

     


覚源上人の墓と常念仏堂跡 日光市久次良町字荒沢国有林

 木橋で寂光沢を渡ったところに、覚源上人の墓と常念仏堂跡があります。
 日光山輪王寺が管理しています。
 最初の寂光の谷の訪問では、覚源上人の墓があるとは知らずに訪れませんでしたが
 2度目の訪問で墓参しました。

<地獄めぐりと釘念仏札>

 覚源上人の地獄めぐりと釘念仏札について、「日光山志」に「釘念佛縁起」が載っています。
 寂光寺の僧であった覚源上人があの世へ行き地獄を見てきました。
 地獄に落ちた者は毎日一本ずつ49本の釘を体に打たれるが、
 娑婆にいるうちに49万遍の念仏を唱えれば許されると閻魔大王から告げられ、
 この世に戻ると手に49個の釘穴のついた木札を握っていました。
 それから釘念仏御札を寂光寺の念仏堂にて人々に授けました。
 そして釘念仏は日光修験者によって全国に広がったとされます。
 釘念仏御札は寂光寺が廃寺となり、日光山輪王寺常行堂が引継ぎ、三仏堂でお札を授けていただけます。
 日光山輪王寺では「寂光寺釘念仏縁起」を中心として,寂光寺から輪王寺に伝わった什宝を所蔵しています。
 (参考)「令和4(2022)年の展示

     


若子神社池石(生石) 日光市日光

 若子神社に向かう途中、寂光道い池石(生石)と呼ばれる巨石があります。
 若子神社の遥拝所として祀られており、池石の水をかきまわすと、雨が降るという言い伝えがあります。

 「一日の行楽 寂光の谷」(田山花袋 博文館 大正7年)によると
 田山花袋も「私なども戯れにそれを掻き廻して帰りに夕立に逢ったことなどがある。」
 田山花袋が池石の水をかきまわしていたとは、なんともおちゃめです。
 来る度にかき回していたとも受け取れる表現です。

     

(説明板)
「池石(生石)
 石の上面に周囲二メートル、深さ三十センチほどの凹みがあり、水をたたえているので「池石」と呼ばれた。ここに溜まった水は、あたかもこの石が生きているように、
一年中枯れたことがないことから「生石」とも呼ばれた。池石の水をかきまわすと、雨が降るという言い伝えがある。また、この石は、若子神社の遙拝所(前立)であり、
石の水が尽きないように無限の財益を授けると言われている。」

   


釈迦堂殉死の墓及び譜代家臣の墓 栃木県文化財 日光市本町1

 将軍家光への殉死の墓び譜代家臣の墓が並んでいます。
 殉死の理由は、衆道(武士の男色)にあります。
 側近の小姓など、主君に目をかけられ、ひいきされて重要なポストに取りたてられ、大きな御恩を自覚していた人々です。

(標柱)
 「殉死之墓」
 「史跡 釈迦堂殉死の墓及び譜代家臣の墓」

 栃木県文化財、県HP説明より
  「女峰山の東南麓、大谷川北岸に南面する釈迦堂の西側に所在する墓地であり、
   南北に長い長方形状を呈し、東側の釈迦堂本堂に向く。
   墓碑は総計24基で、3代将軍家光の殉死者5名、初代家康及び2代秀忠譜代家臣の墓碑19基である。
   その没年銘により、慶長15年(1610)から寛文8年(1668)に及び、およそ江戸初期のものとみられる。
   大老や老中といった幕閣の最高の権門・武門のものを含む24基の墓碑が、
   整然と存する本墓地の景観はまさに偉観であり、その価値は極めて高いといえる。」

    

 墓碑は、前列中央から左端までの5基が順に堀田正盛、阿部重次、内田正信、三枝守恵、奥山安重の殉死者5名です。

    

<釈迦堂> 栃木県文化財

 仏岩谷の開山堂脇から、寛永18(1641)年に妙道院とともに現在の地に移され、
 妙道院は明治初年に廃され釈迦堂が残ります。

   

(説明板)
「釈迦堂(栃木県指定文化財)
 創立年代は不明。山内地内の仏岩谷の開山堂わきから、寛永十八年(一六四一)妙道院とともに現在の地に移された。妙道院は明治初年に途絶えた。
 本尊は釈迦如来座像で、脇侍として文殊、普賢の両菩薩を安置し、天海大僧正の像も祀ってある。七月十三日に輪王寺により盂蘭盆会の法要が営まれる。」

  


延命地蔵(犬牽地蔵) 日光市本町

 延命地蔵堂の境内には、
 「延命地蔵太士」(文化8(1811)年の銘)の碑、石造地蔵座像二体、その横にも石地蔵数体があります。
 元は湯元の兎島にありました。

 日光市HP説明より

 「延命地蔵堂(附)本尊木造地蔵座像、木像仏七体及び境内地の石造地蔵座像二体
   日光開山勝道上人一行が二荒山登頂の途中、田母沢の急流を前に難儀していると地蔵菩薩が現れ、
  お陰にて一行は無事対岸に渡り山頂を極めることができた。地蔵尊に深く感謝した上人は、
  湯元温泉を発見すると湯の湖畔兎島に地蔵尊を刻み安置した。
  その後弟子達は、田母沢の両岸に石の地蔵尊を造像、追って本堂・寮坊を建立し、
  日夜勤行を行なったという。これがこの地の謂われである。
   その後室町の頃、上人御作になる湯元地蔵尊の霊験を信じることなく、
  尊像に犬をつないで湖に投げ込むという暴挙にでた板橋領主が、地蔵尊の霊験で懲らしめられ
  改心したしたという伝承をもって、湯元の地蔵尊は犬牽地蔵とよばれるようになった。
  元禄年間、参拝の便を図り、尊像を湯元兎島から中禅寺湖畔へ移動、延命地蔵として益々信仰される。
  その後田母沢の地蔵堂が焼失したこともあり、一切衆生の結縁を考慮し、
  この地蔵尊をもって険峻より当地に再度移動し祀ったという。
  これらの伝承をもって延命地蔵尊は篤い信仰を受け、現在に至る。」

(説明板)
「延命地蔵尊(犬牽地蔵尊)
 湯ノ湖畔に勝道上人が自ら刻んだという石造の延命地蔵尊があった。室町時代のこと、板橋将監という領主が、湯元に狩猟に出かけた。その折、地蔵を嘲り地蔵と犬をつないで、湖水に投げ込んだ。はじめ犬が地蔵を湖心に引いたが、やがて地蔵は犬を引き岸に向かった。そのとき、激しい雷雨が起こり、犬は悶え死んでしまった。
 将監や家来は口から血を吐いて倒れたが、僧が駆けつけて地蔵を拝んだところ、一同は助かり、地蔵を崇拝するようになった。それで、犬牽地蔵尊とも呼ばれる。中宮祠・湯元地区は、女人禁制であったため、江戸時代に上人ゆかりの現在地に移された。」

     

    


蓮華石 日光市花石町

 国道120号の南側、花石神社の斜め向かいに「蓮華石」があります。
 日光山を開いた勝道上人が、「蓮華石」に坐して日光連峰十八の山々を遙拝しました。
 「菩薩は蓮台に乗る」ということから、人々は菩薩である上人が坐した石ということで、この石を「蓮華石」と呼ぶようになりました。

(説明板)
「蓮華石
 昔、この地域に雄石、雌石など七個の大石があった。「蓮華石」もその一つである。これらの石は、子供の良い遊び場となったので、「お坊石」とも呼ばれ、子供の守護神とされた。この石は、蓮華石村(今の花石町)の町名の由来ともなった。かつては、ここにお堂があり、「蓮華石地蔵」が祀られていた。」

    


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