Discover 栃木 温泉文化遺産(温泉文化史)
 
 憾満の路(憾満ヶ淵と大日堂跡) 2020/8修正

 【匠町】
  ○ 憾満の路
  〇 かんまんの茶屋
  〇 含満児童公園
  〇 西町太子堂
  〇 含満ストーンパーク
  〇 大正天皇御製歌
 【日光】
  〇 慈雲寺跡
  〇 並び地蔵
  〇 霊庇閣
  〇 憾満ヶ淵
  ○ 輪王寺一山墓地(歴代門跡墓所)

 【久次良町】
  〇 大日橋
  ○ 大日堂跡
  〇 芭蕉句碑(安良沢小学校) 別頁

 【花石町】
  〇 蓮華石  別頁
  〇 花石神社 別頁

 【本町】
  〇 延命地蔵(犬牽地蔵) 別頁
  〇 釈迦堂殉死の墓及び譜代家臣の墓 別頁


憾満の路

 「もうひとつの日光 史跡探勝路 憾満の路」があります。
 「憾満の路」は、日光総合会館を起点として、大谷川に沿ってさかのぼり、国道120号を下って町に戻る約5kmのルートです。
 日光総合会館→石升の道→浄光寺→大正天皇御製歌碑→並び地蔵→霊庇閣→憾満ヶ淵→大日橋
 →大日堂ポケットパーク→芭蕉句碑→日光植物園→蓮華石→殉死の墓→日光田母沢御用邸記念公園→日光総合支所
 史跡探勝路は他に「滝尾の路」があります。

 松尾芭蕉は元禄2(1689)年4月2日(新暦5月20日)、東照宮に参詣した翌日、裏見の瀧を見てから、憾満ヶ淵に来ています。
 「宿ヲ出。ウラ見ノ瀧(一リ程西北)、カンマンガ淵見巡」(楚良随行日記)。

    


かんまんの茶屋 日光市匠町8-33 0288-54-0713 HP
 
 憾満ヶ淵の入口に「かんまんの茶屋」があります。
 製麺会社の早見食品工業の直営店です。
 投げ筆蕎麦の製法を応用して、「日光銘水老麺」(ラーメンの麺)を製造しています。
 「かんまんの茶屋」の前に、供養塔5基と、地蔵菩薩が並びます。

 茶屋が存在する地番は匠町(旧板挽町)です。
 東照宮造営に当たりそのまま住み着いた人々により、
 匠町、大工町、板挽町、石屋町などという職人の町をつくっていました。
 (大工町と板挽町は匠町に統合されています)

     

含満児童公園 日光市匠町8

 駐車場の横に「含満児童公園」があります。巨石を活用した表示や、水飲み場が目にとまります。

   

西町太子堂 日光市匠町8

 聖徳太子が祀られています。
 諸国の名工を集め法隆寺を建設したことにあやかり、技量の向上を願って信仰されています。
 東照宮造営に当たりそのまま住み着いた人々により、匠町、大工町、板挽町、石屋町などという職人の町をつくっていました。

(説明板)
「西町太子堂
 この太子堂は聖徳太子が祀られており一説には聖徳太子が諸国の名工を集め技術の粋を尽くした法隆寺を建設したことにあやかり技量の向上を願って信仰するようになったという。
 古い記録によると最初の祀が建てられたのは元和三年(一六一七年)から安永四年(一七七五)の間。
その後、数回建て替えられ現在の祠は、昭和六十二年(一九八七年)に建立された。嘉永二年(一八四九年)の送帳も残されている。
通常、太子の忌日(旧暦二月二二日)をもって祭り日とするが、西町太子講では五月二二日に太子会(聖霊会)を行っている。
  西町太子会」

   

含満ストーンパーク 日光市匠町

 憾満ヶ淵に向かい、児童公園を抜けると、ストーンパークがあります。
 ストーンパークの左手に相輪塔があります。
 
  

大正天皇御製歌 日光市匠町

 大正天皇御製歌があります。
 大正天皇が日光の田母沢御用邸に滞在中、憾満が淵を散策した際に詠んだ歌です。

(碑文)
 「衣手も しぶきにぬれて 大谷川 月夜涼しく 岸づたひせり」

   

慈雲寺跡 日光市日光

 晃海僧正が創立した寺です。明治35(1902)年の洪水で流失、昭和48(1973)年に復元されました。

    

   

 説明板が設置されました。

(説明板)
「慈雲寺
 承応3年(1654)に、憾満ヶ淵を開いた晃海大僧正が創建し、阿弥陀如来と師の慈眼大師天海を祀ったお堂です。
 当時の建物は明治35年(1902)9月の洪水で流失し、現在の本堂は昭和48年(1973)に復元されました。毎年7月14日に輪王寺により盂蘭盆会の法要が営まれます。」

    

<慈雲寺の地蔵群>

 地蔵が並びます。

    

 巨岩を利用した見たことのない手すりです。

  

並び地蔵 日光市日光

 「ヤキバ沢」(上流に素麺滝があります)に架かる橋を渡ると、並び地蔵があります。
 現在は74体が残っているらしいです(数えていないので)。

(説明板)
「並び地蔵(化け地蔵)
 慈眼大師天海の弟子約百名が、「過去万霊、自己菩提」のために寄進したもので、列座の奥には親地蔵が置かれていた。
 霊比閣に一番近い、やや大きめの石地蔵は□(かんまん))の梵字を書いた山順僧正のものである。
 明治三十五年(一九〇二)の大洪水で、親地蔵と他の地蔵のいくつかが流された。また、参詣者がこの地蔵の数を数えてみると、そのつど数が違うというところから、化け地蔵とも呼ばれるようになった。」

    

    

 新聞記事にマスクをつけたお地蔵さんの記事が記憶にあったので、久しぶりに寄ってみました。
 お地蔵さまは、みなさん、マスクをとっていました。
 説明板が新しくなっています。

(説明板)
「慈眼大師天海の弟子約100名が「過古万霊、自己菩提」のために寄進したもので、列座の奥には親地蔵が置かれていました。霊庇閣に一番近い、やや大きめの石地蔵は「カンマン」の梵字を書いた山順僧正が奉納したものです。
 明治35年(1902)9月の大洪水で、親地蔵と他の地蔵のいくつかが流されてしまいました。参詣者がこの地蔵の数を数えてみると、そのつど数が違うというところから、いつしか「化け地蔵」とも呼ばれるようになりました。」

    

「日光名所図会 含満ノ淵」(明治15年3月)

  

「日光 含満淵」(光村写真部 明治33年11月)

  

霊庇閣> 日光市日光

(説明板)
「霊庇閣
 承応三年(一六五四)慈雲寺創建のとき、晃海大僧正が建立した四阿造りの護摩壇で、対岸の不動明王の石像に向かって天下泰平を祈り護摩供養を行った。
 この二メートル余りの不動明王像は今はない。当時の建物も流失し、礎石のみになっていたが、昭和四十六年に輪王寺によって復元された。」

   

 説明板が新しくなっていました(2020年9月訪問時)。

(説明板)
「霊庇閣
 承応3年(1654)、慈雲寺創建のとき、晃海大僧正が建立した四阿造りの護摩壇で、対岸の不動明王の石像に向かって天下泰平を祈る護摩供養を行った場所です。この高さ2メートル余りの不動明王像は、周辺の他の石像や建物などとともに明治35年(1902)9月の大洪水によって流失してしまいましたが、その台座となっていた対岸の巨石には「カンマン」の梵字が彫られていることが今も見ることができます。現在の「霊庇閣」は昭和46年(1971)に輪王寺によって復元されました。」

   

不動明王>

 「日光山道志留辺」(小島鶴次郎 清遠山房 明治20年7月」の絵図には、
 カンマンの大梵字と、流失した不動明王がしっかりと描かれています。
 記述では、大梵字は晃海僧正のものですが、
 世人が晃海と空海の音が似ているので弘法の投筆と誤ったものとしています。

    

憾満ヶ淵> 日光市日光

 男体山から噴出した溶岩によってできた奇勝です。
 古くから不動明王が現れる霊地といわれます。
 川の流れが不動明王の真言「カンマン」を唱えるように響くので、晃海大僧正が「憾満ヶ淵」と名付けたといいます。
 晃海大僧正は、この地に慈雲寺や霊庇閣、不動明王の大石像などを建立し、往時は参詣や行楽の人々で賑わいました。
 天海の弟子約100名が「過古万霊、自己菩提」のために寄進した「並び地蔵」があります。
  「おくのほそ道の風景地」の1つ「ガンマンガ淵(慈雲寺境内)」として国の名勝に指定されています。

(説明板)
「憾満ケ淵(含満ケ淵)(日光市指定名勝)
 男体山から噴出した溶岩によってできた奇勝で、古くから不動明王が現われる霊地といわれる。川の流れが不動明王の真言を唱えるように響くので、晃海大僧正が真言の最後の句の「カンマン」を取り憾満ケ淵と名付けたという。
 晃海はこの地に慈雲寺や霊庇閣、不動明王の大石像などを建立したもので、往時は参詣や行楽の人々で賑わった。元禄二年(一六八九)松尾芭蕉も、奥の細道行脚の途中立ち寄っている。
 「含満」とも書くので「がんまん」と濁って読まれることが多いが、命名の由来から考えると、「かんまん」と澄んで読むのが正しい。」

     

 説明板が新しくなっています。

(説明板)
「国指定名勝 憾満ヶ淵
 男体山から噴出した溶岩によってできた奇勝で、古くから不動明王が現れる霊地といわれます。川の流れが不動明王の真言を唱えるように響くので、晃海大僧正が真言の最後の句の「カンマン」を取り憾満ヶ淵と名付けたといいます。
 晃海大僧正は、この地に慈雲寺や霊庇閣、不動明王の大石像などを建立し、往時は参詣や行楽の人々で賑わいました。元禄2年(1689)、俳聖「松尾芭蕉」も、奥の細道行脚の途中に立ち寄っています。
 大谷川の対岸にある巨石の上には、かつて高さ2メートルの不動明王の石像が置かれていましたが、明治35年(1902)9月の洪水で流失してしまいました。その台座ともなっていた巨石には「カンマン」の梵字が彫られていることが今も見ることができます。この文字は日光山修学院学頭で養源院住職であった山順僧正が書いたものです。
 「含満」とも書くので「がんまん」と濁って読まれることが多いのですが、命名の由来を考えると「かんまん」と澄んで読む方が正しいのです。

  


輪王寺一山墓地 日光市日光2204

 大杉に囲まれた静寂な墓地です。
 入口に石碑「日光山輪王寺 歴代門跡墓所 一山支院」があります。
 輪王寺支院門跡(住職)の江戸期からの墓地です。

     


大日橋 日光市久次良町

 憾満の路を進むと、大谷川にかかる吊り橋(歩道専用)「大日橋」があります。
 2000年10月に開通しました。橋桁を降りると大日堂跡です。

     

 大日橋から見た憾満ヶ淵です。

  


大日堂跡 日光市久次良町大谷川河川敷

 大日堂は明治35(1902)年9月、大谷川の大洪水で流失しています。

<過去の大日堂>

    
 「日光山志」、「日本之名勝」(瀬川光行 史伝編纂所 明33.12)、「仁山智水帖」(光村写真部 明35.6) 掲載資料

<大日堂跡>

    

    

 「南無阿弥陀佛」と刻まれた念仏塔があります。

  

(説明板)
「大日堂跡
 往古は、この周辺を菩提ヶ原と称し、大日如来の堂があった。
 慶安二年(一六四九)、大楽院の恵海がこれを再建、美しい池のある庭園の中に堂があり、大日如来の石像が安置されていた。
 明治三十五年九月の大洪水で総て流され現在は、堂跡にいくつかの礎石を残すのみとなった。」

   

明治天皇駐蹕跡>

 明治天皇は明治9(1876)年、中禅寺湖の帰りに、大日堂に立ち寄られています。

  

芭蕉句碑> 大日堂跡

 松尾芭蕉の句碑は、明治35(1902)年の大洪水で流失後、明治42(1909)年10月に再建された2代目です。

(碑文)
 「あらたふと 青葉若葉の日の光里 芭蕉」

(説明板)
「松尾芭蕉句碑 三
 あらたふと 青葉若葉の日の光里
 芭蕉に関する市内四句碑の一つ。「奥の細道」に出てくる名句で、ここに古くから句碑があったが、明治35年9月の大洪水で流失してしまったので、もとの石刷りを写して再建したと書かれている。
 松尾芭蕉は、江戸前期の俳人。伊賀上野の生まれ。名は、宗房。桃青・泊船堂・釣具庵・風羅坊などの号をもつ。
 この碑が再建されたのは、流失して7年目の明治42年10月、山門の某と建立者が刻まれている。
  日光文学散策路 昭和六十一年設定 日光市」

    

      表面          裏面
   

大日堂詩碑>

 文政2(1819)年建立の、大日堂を賛美した「大日堂詩碑」があります。

(説明板)
「大日堂詩碑
 日の恵み そのほとほとの 花こころ
            東郷 多和羅
 大日堂は、明治35年9月の大洪水で、すべてを流されてしまうまで、美しい池のある庭園で、お堂の中に大日如来の石像が安置されていた。風光の良さは定評があり、多くの人々がここを訪ね、東北御巡幸の明治天皇も立ち寄られている。漢詩は、大日堂を讃美したものだが、作者の東郷多和羅については不明。維時文政二歳己谷春吉祥とあり、一八一九年、江戸後期の碑。建立者光哲とあるが不明。
  日光文学碑散策路 昭和六十一年設定 日光市」

    


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