第1章 若山牧水と草履
第2章 若山牧水と栃木の歌碑
第3章 高塩背山
<牧水歌碑>
若山牧水は、大正11年10月30日に、馬返より電車に乗り日光の友人宅に向かう途中、友人から「鹿が時折鳴く」という鳴虫山の話を聞きます。
牧水は、「鳴き虫山の鹿」と題する8首の歌を詠んでいます。
同地で新聞店を営む星野利一氏がその歌の書を手に入れ、鳴虫山を真向かいに仰ぐ花石神社境内に歌碑を建立しました。
牧水はこの後、喜連川を経て、喜連川の高塩背山に会いに行きます。
(碑文)
「鹿のゐていまもなくてふ下野の
なきむし山の峰のまどかさ 牧水」
(碑陰)
「牧水歌碑に寄す
鳴虫山に雲がかかると雨が降るという
この碑の正面はるか前方、最も高いまるい峰が鳴虫山です。
若山牧水先生は大正十一年十月二十八日群馬県より金精峠を越えて日光町に足跡を印ました。
湯元に一泊、二十九日中禅寺一泊、三十日には馬返より電車に乗り
窓から鳴虫山を眺め鹿の話など聞きながら日光町板挽町(現日光市匠町)の友人斎藤氏宅に到り二泊
十一月一日宇都宮市に向って出発されました。
その間数首の秀歌を詠まれ その中の一首がこの碑の歌です。
自然を愛する心を養うよすがにもと先生自筆のまま石に刻み、鳴虫山を望むこの地に歌碑を建立しました。
昭和四十八年七月吉祥 日光市清滝 星野利一」
(説明板)
「若山牧水歌碑
鹿のゐて いまもなくてふ 下野の
なきむし山の峰のまどかさ 牧水
若山牧水は、本名繁。明治18年宮崎県生まれ。旅と酒を愛した歌人として名高い。昭和3年、44歳で死去。
大正11年10月、群馬県より金精峠を越えて来晃。馬返から電車に乗って、鳴虫山を眺めた時の歌。牧水の自筆である。昭和48年7月15日、日光市清滝星野利一氏・日光市文化財保護委員会・日光市・花石町自治会が建立。
日光文学碑散策路 昭和61年設定 日光市」
<焼加羅の碑>
「焼加羅の碑(たきがらのひ)」は、徳川家光の遺臣で日光山守護職を40数年務めた梶定良が、
愛馬「焼加羅」を弔うために建てました(延宝3(1675)年)。
梶定良の業績として、滝尾社に奉納した「石鳥居」と滝尾道に建立した「御神馬碑」があります。
(説明板)
「焼加羅の碑
「焼加羅」とは、市内小来川滝ケ原産の名馬の名。馬の主人、梶定良が、30歳で死んだ愛馬への惜別の情を、漢文に託して刻んだ碑。
梶定良は、慶長17年(一六ーニ年)伊勢の生まれ。3代将軍徳川家光の忠臣で、家光没後、47年間家光廟大猷院定番を務めた。毎日愛馬で通る姿は、町民から梶様といわれしたわれた。元禄11年(一六九八年)死去。
碑は、干時延宝三乙卯年二月九日(一六七五年)梶定良による建立。定良は、このほか史跡探勝路途中に、神馬の碑を建てている。
日光文学碑散策路 昭和六十一年設定 日光市」
<花石神社>
日光山を開いた勝道上人が、蓮華石に坐して日光連峰十八の山々を遙拝、光仁年中(810〜824)十八神をここに祀りました。
徳川時代までは「十八王子」といい、明治2年に社号を花石神社と改めました。
(説明板)
「花石神社
今からおよそ千二百年前、日光山を開いた勝道上人が、蓮華石に坐して日光連峰十八の山々を遙拝、光仁年中(八一〇〜八二四)十八神をここに祀った。
徳川時代までは「十八王子」といった。正保二年(一六四五)に徳川家光が社殿を改造し、明治二年(一八六九)祭神を少名彦名命として、社号を花石神社と改めた。花石町の氏神である。正月三が日後の日曜日に五社祭(磐裂、青龍、八幡、花石、久次良の各社)。例祭は、九月十九日であるが、九月の第四日曜日または十月の第一日曜日になる場合もある。」
<ケヤキ> 日光市天然記念物
参道の右側に、日光市天然記念物「ケヤキ」があります。
(説明板)
「日光市指定文化財 花石神社のケヤキ
種別:天然記念物
員数:一本
指定樹齢:約八〇〇年
花石町の街路より神社への参道に入り、石鳥居の手前右側にある。参道はケヤキの位置より約一メートル低く、西の樹幹は低地にかかり、路面上に約八メートルにわたって根の一部が露出している。
地上五メートルより二本の幹に分岐しているが、北側のものは損傷したため、途中で切断された。また南側のものの東面にも木質部の露出があるが、地際部より上方にかけて瘤状の隆起が多く見られ、形状も老樹としての風格を見せ、樹勢の衰えは否めないが、日光地域におけるケヤキの代表的老樹であるので、保護するものである。
昭和四十一年六月二十七日指定 日光市教育委員会」
<社殿/熊野神社>
釜川にかかる御橋(みはし)の下流に牧水亭という四阿があり、牧水の歌碑があります。
<若山牧水の歌碑>
(碑文)
「まちなかの 小橋のほとり ひややけき
風流れゐて さくら散るなり 牧水」
(説明板)
「若山牧水の歌碑
旅と酒を愛した歌人、若山牧水は大正九年四月十九日、宇都宮で開かれた「下野歌人会」に出席、若い県内歌人を指導した。
歌会に先だち、牧水はバンバの南、釜川にかかる「御橋」の傍の桜並木と、二荒山神社の表参道右手の桜を素材に、
まちなかの小橋のほとりひややけき風流れゐてさくら散るなり
ひとしきり散りての後をしづもりてうららけきかも遠き桜は
と、詠んだ。
この二首は歌集「くろ土」に「宇都宮市にて」と詞書がついて収録されている。
若山牧水は明治十八年、宮崎県に生まれた。尾上柴舟に師事短歌雑誌「創作」を主宰、数多くの後進を育て、明治、大正の歌壇に大きな足跡を残した。
この歌碑は、宇都宮市が釜川の河川改修を記念し、ゆかりの地に建てた。 渋谷行雄 識」
二荒山神社は、宇都宮市の中心部、明神山(臼ヶ峰、標高約135m)山頂に鎮座しています。
藤原秀郷、源頼義・源義家、源頼朝、徳川家康など多くの武将も戦勝祈願、種々の寄進や社殿の改築をしたと伝えられています。
那須与一は平家船上の扇の的を射る際に「日光権現、宇都宮、那須の温泉大明神」と祈ったといいます。
興禅寺は正和3(1314)年、宇都宮8代城主貞綱が開いた寺です。
牧水歌碑は、案内板に記載の場所にはなく、鐘楼脇に移動しています。
(碑文)
「かんがへてのみはじめたる一合の
二合のさけの夏のゆふぐれ 牧水」
「昭和五十七年三月廿参日
「牧水」 英宗和尚(暮人)
短歌恩師ナルヲ以ッテ、靖宗建之」
<石川暮人 歌碑>
(碑文)
「とこしへにたのみがたなき愛染の わが目のあたり白菊の花 暮人」
「下野短歌創立主宰者 石川暮人」
上記の他に、歌碑が2つあります。
<今東光歌碑>
(碑文)
「日光は雨降るらしもとのぐもる下野の野に虹の立つ見ゆ 今東光」
(碑文)
「山は遠いし野原はひろし 水は流れる雲はゆく 雨情」
生前交遊により英宗和尚(暮人)が雨情の葬儀を執り行い、
謝礼の雨情の詠んだ歌の直筆の半切を碑にしたものです。
明保地区明るいまちづくり協議会のHPより
「興禅寺住職で歌人であった石川暮人氏が国民服にゲートル巻、防空頭巾姿で立会い、
お経を読んで出棺したという。」
8代城主宇都宮貞綱、9代城主宇都宮公綱(貞綱の息子)の墓所です。
さらに、奥平家昌(母親は徳川家康の長女、亀姫)、息子の奥平忠昌の供養塔があります。
<宇都宮貞綱像>
宇都宮貞綱は鎌倉幕府御家人で、宇都宮氏の8代当主です。
二度目の元寇「弘安の役」に際し、宇都宮貞綱は16歳にして御家人6万人の総大将として出陣しました。
ところが、この宇都宮貞綱率いる6万の軍勢が九州へ到着する前に、備後に到達したところで、
九州の武士たちの奮戦の中、暴風雨によりモンゴル軍は全滅しました。
宇都宮貞綱は九州では、今後のことに備えて防禦の陣構えなどを施して引き揚げました。
その功績により戦後、引付衆の一人に任じられました。
(碑文)
「願文
野州精神を想起せよ
かつて蒙古勢を迎え討つ援軍として出兵せる下野武士の勇猛を、今こゝに貞綱候銅像建立に際して
この「歴史」と「伝統」を誇りとし
「努力」と「精進」を祈念し
ひいては「感謝」と「強調性」に敷衍されることを願うしのであります。
昭和六十一年十一月五日 住持 元海謹誌」
<墓地>
墓地も見所満載です。
<禅雄大禅師頌徳碑>
禅雄大禅師頌徳碑と刻まれています。花園徳宗書とあります。
<興禅寺歴代和尚墓所>
当てずっぽうですが、英宗和尚ですかね。
<奥平内蔵允の墓>
江戸三大仇討の一つ「浄瑠璃坂の仇討」で有名な奥平内蔵允正輝夫妻の墓所があります。
<筑紫市兵衛之墓/寛永之馬術の名人>
寛永之馬術の名人、筑紫市兵衛之墓があります。
<河北禅林 神護山 興禅寺>
執権北条高時は、扁額「河北禅林」を墨書しています。
「興禅寺開山 真空妙応禅師 供養塔」があります。
若山牧水は、大正4年7月19日、大正11年11月3日、大正14年9月と、喜連川を三回訪れています。
「旅とふる郷(第三編 野州行)」(若山牧水 新潮社 大正5)中、野州行の中で、停車場、喜連川として、
大正4年訪問時について、喜連川の様子が記されています。
<双歌碑>
(碑文)
「時をおき老樹の雫おつるごと
しづけき酒は朝にこそあれ
高塩背山兄の許に宿れる翌朝 大正四年夏 牧水」
「かぜとよむ桜若葉のあひだより
のこれる花のちるはさびしき 背山」
千葉県野田のキッコーマンに、キッコーマンを讃えた珍しい句碑があります。
タイミングが悪いのか、いつも門は閉まっているのか、外から句碑の裏だけ確認。
「おのづからよろづの味のもととなる亀甲万のむらさきぞ濃き」
若山牧水真蹟 昭和2年6月12日、亀甲萬を讃えて詠む
昭和44(1969)年11月14日「若山牧水歌碑」完成