【その他】
○ 龍頭の滝(奥日光三名瀑)
○ 湯滝(奥日光三名瀑)
○ 方等滝/般若滝
○ 寂光の滝 別頁
○ 白糸の滝 別頁
○ 素麺の滝
〇 ヤキバ沢の素麺滝
「日本三名瀑」「日光三名瀑」「奥日光三名瀑」の一つ「華厳の滝」です。
国の名勝に指定されています。
華厳の滝は日光山開山の勝道上人の発見と伝えられており、経典の名から名付けられたといいます。
中禅寺湖から流れ出た大尻川が500メートル下流で、華厳の滝となって岩壁から一気に落下します。
大尻川には中禅寺ダムがあり、水量が調節されています。
岩盤の中を一気に100m降りる華厳滝エレベーターで、滝正面の観瀑台へ。
(説明板)
「御案内
その昔、男体山の噴火で生まれた中禅寺湖の湖水が大尻川となって流れ出し、この大岸壁から一気に落下する壮大な雄姿が華厳滝です。
高さ 九七.〇m
落口巾 七.〇m
滝壺深さ 四.五m
落水量(毎秒四トン)
華厳小滝を囲むこの大岸壁は上部から安山岩・集塊岩・石英斑岩とで形成され中段の細い滝の数々は十二滝と呼ばれています。
滝の流れは更に観瀑台直下の涅槃滝にかかり大谷川となって鬼怒川に合流しています。」
※落水量の表記は、状況に応じて随時貼り替えているようです。
<県営華厳滝観瀑台>
こちらは、昭和54(1979)年に整備された、無料の「県営華厳滝観瀑台」からの眺めです。
滝壺は見えませんが、滝口が見えます。
「日光山名所之内 華厳之滝」(英泉 東京国立博物館蔵)
<発電所>
華厳の滝の反対側の下を見ると、古河日光発電株式会社の小屋が見えます。
華厳の滝エレベーターの右手に、明治天皇が立ち寄られた碑があります。
明治9(1876)年に明治天皇が行幸されました。
<明智平展望台>
明智平(標高1,274m)から、ロープウエイで、明智平展望台(標高1,373m)へ。
<白雲滝/鵲橋>
明智平展望台から中禅寺湖と華厳の滝を眺めた光景です。
現在は行くことができなくなった「白雲滝」と「鵲橋」(かささぎばし)が見えます。
明治時代後半の案内書にはここへ行く「華厳瀧壺道」が必ず言及されているほど有名でした。
昭和5年に華厳滝エレベーターが完成し、手軽に華厳の滝を見ることができるようになり、
「華厳滝壺道」の需要は無くなり姿を消して行きました。
いろは坂下り、一方通行が始まるところに、今は失われた「華厳瀧壺道」の道標が残っています。
華厳の滝の滝壺への道を星野五郎平が開発し、その途上で白雲瀧を発見しました。
滝壺に五郎平茶屋を設けました。
「左 華厳瀧壺 白雲瀧 涅槃滝 道」
「明治三十三年十月開鑿竣工 星野五郎平」
星野五郎平翁の功績を称する小杉博士の和歌が刻まれています。
「高等小学校外読本 第2学年下巻1」(明治38年 国立国会図書館デジタルコレクション)
明治期の教科書でも紹介されています。
「白雲滝は一名五郎平瀧と申します。五郎平とは、中宮祠の辺に住んでゐた星野五郎平とふ老人のことで、この老人が、永い間、深山をたづね廻って、やっと見出した大瀧で、これを見出したのは明治三十三年であります。(以下略)」
「写真遊覧 白雲瀧」(写真遊覧画報社 大正5年)
「児童百科大辞典」(昭和10年 国立国会図書館蔵)
華厳滝の二重瀑の構造と、白雲滝の構造が図解で示されています。
華厳の滝は、自然の力で少しずつ位置を変え続けおり、年間約2cmの速度で上流へ後退しています。
昭和10(1935)年7月6日には滝口の岩盤が落下し五郎平茶屋を直撃して4人が死亡する事故が起きています。
「日本風景誌」(昭和14年)
岩の間から湧出している白雲滝の水源の写真が掲載されています。
「中禅寺湖の水は華嚴熔岩と基盤なる石英斑岩との接触部を通過して伏流をなし華厳峡谷の峻壁より迸出して華嚴小瀑及白雲瀧の水源をなす」
「滝見の旅」(伊藤佐千夫 明治33年10月 青空文庫)
伊藤佐千夫は長塚節と連れだって、「華厳瀧壺道」が完成した明治33年に、華厳の滝壺を訪れています。
瀧壺道は、かなり難儀な道であったことが伺えます。
「手に草をつかみてうしろ向きになりて少しずつ下り行く。危き橋をようように這いわたりて終に下り着く(中略)
衣は雨に濡れたらんが如し。茶店にて裸なりて乾す。」
「新聞集成明治編年史」(昭和15年 国立国会図書館蔵)
明治44(1911)年8月19日の読売新聞の記事「華厳の滝の五郎平爺」によると、
星野五郎平爺は明治44(1911)年4月27日に病死したとの記述があります。
「一日の行楽」(田山花袋 博文館 大正7年 国立国会図書館蔵)
田山花袋は「華厳瀧壺道」を通って、「白雲の滝」「鵲橋」「涅槃の滝」「五郎平茶屋」「華厳の滝」と訪れています。
瀧壺道は、かなりな急勾配で、女子供にはむづかしいと評しています。
「華嚴瀧」(幸田露伴 昭和2年 青空文庫)
幸田露伴は昭和2年7月9日に日光を訪れ、中禅寺湖の米屋旅館に宿泊、翌10日に華厳の滝壺を訪れました。
幸田露伴が訪れた時の五郎平茶屋は、五郎平の子である五郎作が主人でした。
「五郎兵衞茶屋の主人、名は五郎作、六十餘の好人物的風采を具した男で、茶屋開始者五郎兵衞老人の子である。」以下、星野五郎平の功績を記しています。
古くから「華厳の滝」「裏見の滝」とともに日光三名瀑の一つである「霧降の滝」です。
霧降川を2段に分かれて落下する姿が特徴的です。
日光東照宮への道すがら多くの人が訪れました。
鑑瀑台から見た「霧降の滝」です。
「諸國瀧廻リ 下野黒髪山きりふりの滝」(北斎 東京国立博物館蔵)
「日光山名所之内 霧降之滝」(英泉 東京国立博物館蔵)
北斎の影響を受けている絵です。
「諸国名所百景 日光霧降の滝」(二代広重)
「裏見の滝」は、日光三名瀑(「華厳滝」「霧降滝」「裏見滝」)のひとつです。
男体山から流れる荒沢川にあります。
駐車場から「裏見の滝歩道」が整備されています。
松尾芭蕉は、東照宮に参詣した翌日、元禄2(1689)年4月2日(新暦5月20日)に、「裏見の滝」と「憾満ヶ淵」に来ています。
「宿ヲ出。ウラ見ノ瀧(一リ程西北)、カンマンガ淵見巡」(楚良随行日記)
<地蔵尊>
「裏見の滝歩道」がウッドデッキとなる手前に「地蔵尊」が祀られています。
(説明板)
「清山院地蔵尊由来
寛永元年(一六二四)奥州出羽三山より羽黒山荒澤不動明王が、この地に勧請されました。
尓来、修行・信仰の霊場として栄えたが、明治以降は、廃れてしまいました。
日光修験行者・清山院康見(故石島康男)師は、昭和四十年代より有志と共に再興を発願、以来五月・十月の二十八日には荒澤不動尊護摩供養修されてきました。
ここに師の遺徳をたたえ菩提を願って地蔵尊を建立する。
平成七年十月二十八日 有志一同」
<観瀑台>
かつてはその名の通り裏側から滝を見ることができました。
明治35(1902)年9月の水害で上部の岩が崩落したため、滝の裏に通じる道は封鎖され、
現在は観瀑台からの鑑賞となります。
左が「荒沢相生滝」、右が「裏見の滝」です。
<荒沢不動明王>
裏から滝を見ることができた場所に、荒沢不動明王が祀られています。
説明板に「寛永元年(一六二四)奥州の出羽三山より羽黒山荒澤不動明王が、この地に勧進されました。」とあります。
「日光山志」(植田孟縉 文政7[1824]年)に掲載の「裏見ヶ瀧」及び
「日光山道志留辺」(小島鶴次郎 清遠山房 明20.7)に記載の「裏見瀧」です。
裏から見る道筋が、明瞭に描かれています。
「六十余州名所図会 下野 日光山裏見ノ滝」(広重)
広重が描いた裏見ノ滝です。
上部が階段状でその後、一気に流れ落ちる滝が描かれています。
滝裏には旅人が歩いています。
「諸国六十八景 下野裏見滝」(二代広重)
「日光山名所之内 裏見ヶ滝」(英泉 東京国立博物館蔵)
「過眼掌記 裏見瀑」(椿椿山 江戸後期)
滝裏に荒沢不動明王が描かれています。
「日本名勝図会 裏見ヶ瀧」(小林清親 明治29年)
小林清親が裏見ヶ瀧を描いています。左手に荒沢不動明王が描かれています。
<芭蕉句碑>
田山花袋によると、裏見の瀧の入口に、芭蕉句碑がありましたが、
水害後に訪れた時は、あったはずの場所に芭蕉句碑がなくなっていたと書いています。
「渓の入口にあった芭蕉の「しばらくは瀧にこもるや夏のはじめ」といふ句碑
も何處に行ったかあたりには見當らなかった。」
「あら山の瀑のほとりに唯一人すめる少女子さびしからずや」と、
自分が詠んだ句を紹介しています。
今も、芭蕉句碑は裏見の滝にありませんが、安良沢小学校に芭蕉句碑が設置されています。
<芭蕉句碑> 安良沢小学校 正面玄関向かって右 日光市久次良町1777
(碑文)
「志はらくは 滝にこもるや 夏の初」
国道120号から裏見の滝へ行く道の反対側の道を行くと安良沢小学校があり、
校舎の前に、芭蕉が裏見の滝を訪れた時の句碑があります。
この道をさらに進むと大日堂跡です。
(案内板)
「松尾芭蕉句碑 四
志はらくは 滝にこもるや 夏の初
芭蕉翁 おくの細道
うらみたきの吟
松尾芭蕉は、江戸時代前期の俳人。伊賀上野の生まれ。名は、宗房。桃青・泊船堂・釣具庵・風羅坊などの号をもつ。
元禄2年(一六八九年)日光裏見の滝へ立寄った時の句。「夏」とは、夏行・夏安居・夏篭などの略で、僧の修行のことをいう。
碑は、小杉放菴の書で、昭和31年5月、安良沢小学校創立記念に日光市と関係町内が建立。
日光文学碑散策路 昭和61年設定 日光市」
※日光文学碑散策路 芭蕉のみち
裏見の滝から荒沢不動尊、安良沢小学校前の句碑、大日堂跡の芭蕉句碑、日光植物園を巡る散策コースです。
表面 裏面
国道120号から大日堂跡へ向かう三叉路に「道標」と「庚申塔」があります。
正面「左大日中禅寺道 右荒澤裏滝見道」と刻まれた道標です。
左側面「江戸 中橋廣小路 泉屋三〜」とあります。
大きな「庚申塔」の台石も道標です。
「右 川又 荒沢 左 中禅寺 足尾」と刻まれています。
奥日光三名瀑の一つ「龍頭の滝」です。
湯ノ湖を水源とする湯川が、中禅寺湖に注ぐ手前にあります。
男体山の噴火によってできた階段状の溶岩の上を210メートルにわたって流れ落ちています。
滝つぼ近くが大きな岩によって二分され、その様子が竜の頭に似ていることからこの名がついたといわれています。
紅葉の時期は、大渋滞します。
暗いうちに出て、渋滞する前に帰ってくることで渋滞を避けました。
奥日光三名瀑の一つ「湯瀧」です。
湯ノ湖湖尻は、湯ノ湖から湯滝となって流れ落ちるビュースポットです。
また、連山が望めるナイスビュースポットでもあります。
湯ノ湖(海抜1,475m)湖尻より連山を望む
いろは坂下りの「41(み)」と「42(し)」の間に、「剣が峰展望所」があります。
左:「方等滝」 右:「般若滝」が見えます。
「剣が峰」の名前の由来は、「日光山志」によると、
桟道を設けて通路とし、刃の上を渡るの危うきにたとえてこのように呼んだとのこと。
(碑文)
「二荒山神社境内 左 方等滝 右 般若滝」
男体山の大薙の下に造られた方等上流砂防堰堤(国登録有形文化財)の下が方等滝です。
方等滝は、砂防堰堤の下なので、ちょっと風情がそがれます。
両滝とも、日光を開山した勝道上人が仏教の経典(華厳経)に基づいて命名したと言われています。
<古道(中禅寺坂)>
「日光山志」に掲載されている方等滝/般若滝を見ると、江戸時代の中禅寺湖への古道(中禅寺坂)は、
方等滝/般若滝の滝壺下近くを通っています。
桟橋から間近に滝を見物できたようで、観瀑台も描かれています。
<古道(中禅寺坂)>(田山花袋の描写)
江戸時代からの古道(中禅寺坂)は、方等滝・般若滝に、滝見茶屋があり、
ここから中の茶屋に向かい長い坂が始まります。なかなか険しい道だったようです。
明治天皇は籠に乗って中の茶屋に上がり、そこで休憩しました。
大正2年には日光軌道が馬返まで延伸し、また新道が整備されました。
「東京近郊一日の行楽 中禅寺行き」(田山花袋 博文館 大正12)
「新道を行けばそう大して苦しいこともないが、一里以上も遠いから、
何うしても、旧道のほうを歩いて行くということになる。」
「方等般若の茶屋附近から仰ぐと、中の茶屋は非常に高く、あんなところまで〜」
「山水小記」(田山花袋 富田文陽堂 大正6)
「電車が馬返まで通じたので、大平まで上つて行く嶮しい舊道は、
今は都會の人達に取つて丁度好い山路になつた。
かれ等は袒になつたり、尻端折りをしたりして面白がつて登る。
女も「はア」などと呼吸をつきつき登つて行く。
女學生の團體では、「まだ中々でせうかね」などと言つて立留つて喘いでゐる。
中の茶屋から見た谷は頗る好い、やがて不動坂を上り盡すと、
大平のさびしい林が來る。山毛欅や榛や白樺の幹の林立してゐるさまも見事である。
つゞいて華嚴の休茶屋が來る。すさまじい瀑はだう然として深い谷に向つて瀉下してゐる。」
中の茶屋から上は不動坂といい、これまた険しい道だったようです。
不動坂の上の茶屋に、みな転げるようにして入っていき休みました。
「一日の行楽」(田山花袋 博文館 大正7)
「此茶屋には、誰れでもころげるやうにして入って行って休むのが例である。それほど不動阪は嶮しい。」
「過眼掌記 方等瀑 般若瀑」(椿椿山 江戸後期)
<白糸瀧が素麺瀧として描かれている>
「日光名勝十二景うち四景 3 滝尾素麺瀧」(明治14年) 画像
「日光山十景 9 素麺滝」(明治19年) 画像
「日光山名所之内 素麺之瀧」(渓斎英泉) 画像
上記2つの画は、滝尾にある白糸の瀧が素麺瀧として描かれています。
渓斎英泉の浮世絵は、JTの解説では龍頭の瀧としていますが(根拠は不明です)、
石地蔵が描かれていて、日光山志の挿絵に描かれているヤキバ沢の素麺瀧にも左岸に石地蔵があります。
ヤキバ沢の素麺瀧と思えます。
「日光名勝十二景之内 滝尾素麺滝」(大英博物館蔵)
記載を見ると、白糸の滝ともいうとあり、含満の南方にも素麺の滝があると記しています。
「日光山名蹟誌」(井上茂兵衛明23.5)では、白糸の瀧が「そふめんタキ」と記されています。
<明治時代の誤り>
明治時代は、白糸の瀧が素麺の瀧であると一般的に認識されていたようですが、
いつくかの日光案内本では、それは誤りとしています。
(例)
「新撰日光山誌」(小堀源三郎編 万象堂 明15.8)では、
「含満の南に在り 滝の傍に石地蔵を安ず 此山谷を素麺谿と曰ふ」
「滝尾の白糸瀧を素麺瀧と唱えて十景の中に加ふるは大なる誤なり」としています。
(例)
「日光名勝案内記」(島村忠次郎編 鈴木角太郎発行 明32.5)の白糸瀧の説明では、
「世人誤りて素麺瀧と唱ふれども素麺瀧は他にあり。」
<江戸時代の誤り>
「日光山志」の瀧尾瀑布の説明では、
「白糸瀧とも唱ふ。〜 此瀧を素麺瀧といふは誤なり。素麺瀧は含満の南にあり。
爰の山谷を素麺谿といふ由ものに見えたり。」
「下墅國日光山之圖」(承応2(1653)年)には、瀧尾に「そふめん谷」があります。
これは正確な表記と思います。
江戸時代も白糸瀧を素麺瀧と一般的に認識されていたようです。
別所の説明に日光責の道具が並んでいるとの記載や、
ここら一体が素麺谷であることなどが記されているので、
素麺谷にある滝を、素麺瀧と認識しても自然かなとも思います。
しかし、弘法大師由来の白糸の滝が、
満願寺の一僧侶によって滝の名前が変わるのはよろしくないでしょう。
白糸の瀧≠素麺の瀧を支持します。
塩原古町温泉の元は「鹿の湯」だったのが、喜連川公が入浴して「御所の湯」となりましたが、
後に宇都宮公が入浴しても、「御座の湯」へ名前は変わらず、そのまま「御所の湯」でした。
よりご威光の大きい方の名前が踏襲されるということかと思います。
<素麺瀧(鳴虫山のヤキバ沢)>
鳴虫山の北の麓、ヤキバ沢にある素麺の瀧が紹介されている江戸時代及び明治時代の日光案内本です。
「日光山志」
「含満の南に在り。瀧の傍に石地蔵を安置。此山谷を素麺谿と曰ふ」と記しています。
鳴虫山の本来の名前は「大懺法嶽(たいせんほうがたけ)」。後ろの山が「小懺法嶽(しょうせんほうがたけ)」
ここの谷が、素麺谷です。挿絵には滝の横に石地蔵が描かれています。
鳴虫山、二宮山、松立山、冬峯は、行者業行の地だったので、
そうめん事件の現場は、ここだった可能性があると思います。
「日光山名所之内 素麺之瀧」(渓斎英泉 ボストン美術館蔵)
滝の傍に石地蔵が見えます。ヤキバ沢の素麺滝を描いていると思われます。
「日光山名所案内記」(井上茂兵衛編 光陽堂 明29.5)
掲載されている「日光山地図」には、素麺滝は、含満渕の南に描かれています。
「日光山名所案内記」(井上茂兵衛編 光陽堂 明29.5)
白糸の滝及び素麺滝とも挿絵の紹介があります。
「日本之名勝」(瀬川光行 編 史伝編纂所 明33.12)
「素麺瀧は、鳴虫山の北の麓にあり、」と記載されています。
写真は「そうめんの瀧」とありますが、白糸の滝に見えます。
素麺瀧は、他には荒沢素麺瀧があります。裏見の滝の手前にあります。
また、清滝寺には、そうめん地蔵があります。
修験道に関係するところに、なぜこんなに素麺瀧、素麺谷、そうめん地蔵があるのでしょうか。
日光山に行った満願寺の僧が、山伏に無理にそうめんを食べさせられ、
そうめん地蔵が平らげるという伝説があります。
日光の強飯式のルーツとなっています。
(説明板)
「将軍地蔵
源義家が奥州に進軍したとき鬼怒川釜ヶ渕の悪蛇のため進めません。宗円法師の祈りで将軍地蔵が出現して悪蛇を退散させたので、勝山城を守護する寺院として堂原に将軍山地蔵院満願寺を建てました。
室町時代のころ、ここから日光山に修行に行ったお坊さんが意地悪山伏に素麺を無理やり食べさせられ気絶しました。別のお坊さんが来て日光中の素麺を食べつくしたので山伏は降参しました。お坊さんは将軍地蔵の姿となりお坊さんを連れて勝山に帰りました。これから「そうめん地蔵」伝説が生まれ、日光責め・強飯式が起こったと言われています。戦国時代に那須勢が攻めてきて焼打ちをしたので満願寺は焼けてしまいました。
江戸時代には再建されて堂原地蔵堂となり奥州街道の道中安全にご利益があるので有名となり、遠く秋田・会津の商人たちから奉納された石灯籠などが残されています。」
<堂原地蔵堂>
堂原地蔵堂内には木像の「そうめん地蔵」が祀られています。
<ヤキバ沢へ>
ヤキバ沢の名前は、昔ここに火葬場があったことに由来するようです。
ヤキバ沢の西側には、日光山輪王寺の歴代門跡墓所があります。
ヤキバ沢は、鳴虫山の北麓を流れ、「憾満ヶ淵」に注いでいます。
鳴虫山への登山道は掲示が出ていますが、ヤキバ沢へは、掲示のない道を入ります。
ヤキバ沢にかかる橋を渡って、日光宇都宮道路をくぐって、道路からヤキバ沢の土手にあがります。
途中、東京電力の看板が転がっていました。東京電力の保養林のようです。
【鳴虫山歩道】
参考までに、こちらは鳴虫山歩道です。
鳴虫山(標高1103メートル)の秋の紅葉は「日光八景」の1つに数えられています。
この山に雲がかかると雨になり、子どもの泣虫にたとえて鳴虫山といいますが、古くは大懺法嶽と称しました。
この辺りは、日光山の僧たちの修行の行場でした。
<最初は堰堤が続く>
大谷川へ流れ込む下流方面は、堰堤が3つ、これを過ぎると石地蔵があります。
<石地蔵>
素麺滝始まりの手前、ヤキバ沢右岸に、石地蔵があり、昔の名勝の雰囲気が残っていました。
<素麺滝1段目>
ヤキバ沢は渓流の様相を示しだし、小さな滝というか段差が続きます。
どれが1段目でしょうか?
<素麺滝2段目、3段目、4段目はパス>
2段目は、右岸から水量の少ない滝が並列して落ちてきている滝です。
鳴虫山の北の麓に流れるヤキバ沢の素麺滝は、4段で構成されている滝ですが、
ここまで見て、その先は危なそうなのでさらに上の滝は見ずに引き返しました。