Discover 栃木 温泉文化遺産(温泉文化史)
 
 芭蕉ゆかりの地 余瀬/黒羽 他


【余瀬】
 ○ 余瀬(旧粟野宿)
   ・余瀬昔碑
   ・芭蕉と余瀬地区
 ○ 白旗城
   ・義経塚
   ・賀茂神社
   ・薬師堂
   ・直箟神社
 ○ 白旗山西教寺
 ○ 鹿子畑翠桃邸跡の入口
 ○ 鹿子畑邸跡
 ○ 鹿子畑高明
 ○ 浄法寺図書
 ○ 鹿子畑翠桃
 ○ 修験光明寺津田源光室

【金丸】
 ○ 那須神社(金丸八幡宮)

【黒羽】 別頁
 ○ 白旗不動尊
 ○ 芭蕉の道
 ○ 浄法寺桃雪邸跡
 ○ 黒羽芭蕉の館
 ○ 馬上姿の芭蕉翁と曽良の像
 ○ 奥の細道文学碑
 ○ 大雄寺
   ・シャン姫の墓碑
   ・月桂院と浄法寺図書の墓碑
   ・徳川家康の玄孫 
   ・増業の碑
   ・大関家代々墓地
   ・津田家墓所
 ○ 長松院法王寺(シャン姫開基の寺)
 ○ 芭蕉句碑(常念寺)
 ○ 高岩波切不動尊

【東京】 別頁
 ○ 大関横丁/黒羽藩大関屋敷

【蜂巣】
 ○ 犬追物跡・犬追馬場跡
 ○ 玉藻稲荷神社
 ○ 狐塚之址

【雲厳寺】
 ○ 雲厳寺 

【矢板市】
 ○ かさねとは八重撫子の名なるべし
【大田原市実取】
 ○ かさねとは八重撫子の名なる可し
【大田原市余瀬】
 ○ かさねとは八重撫子の名なるべし
【大田原市前田】 別頁
 ○ かさねとは八重撫子の名成べし


余瀬(旧粟野宿)】 大田原市余瀬

 余瀬は元は栗野という名で、軍兵を集めたことから寄瀬と呼び、のち余瀬と改称したと伝わっているといいます。

 この余瀬に白旗山があり、源頼義・義家父子が奥州征討の時、粟野に宿陣し、
 西の丘に白旗を翻し軍勢を寄せ集め魚鱗鶴翼の備えを行ったことから白旗山と名付けられたとの伝えがあります。

 また、義経がこの丘で旗上げし与一と君臣の約を結んだので(義経塚があります)白旗と呼ばれるとも伝えられています。
 後に大関氏が城を築き白旗城と称しました。

 関街道粟野宿の全盛時は戸数314戸で、相撲、人形芝居の歓楽場の跡として、
 櫓下(やぐらした)や操場(あやつりば)の地名が残るとのことで、
 相撲場は国技館と比すべき常設場(そうなの?)とのこと(那須郡誌)。
 粟野宿は天正4(1576)年に白旗城が黒羽に移ってからはさびれます。

 「那須郷土誌」(明治36年)、「那須郡誌」(大正13年)、現地説明板、現地確認よりまとめました。

○西教寺南側に建つ「余瀬の昔」碑 大田原市余瀬

 粟野宿碑「余瀬の昔 我さとは関街道の粟野宿」があります。

    

松尾芭蕉と余瀬地区 大田原市余瀬

 東山道「粟野宿」に、標柱「おくのほそ道」と説明板「松尾芭蕉と余瀬地区」が設置されています。

(説明板)
「松尾芭蕉と余瀬地区
 元禄2年(1689)に江戸を発った俳聖松尾芭蕉は、弟子の曾良とともに、「奥の細道」行脚の途中黒羽の地を訪れ、旅程中最も長い14日間逗留し、知人や多くの史跡を訪ね、次に向かう「みちのく」の地への準備期間をここで過ごした。宿泊先は、江戸において芭蕉の門人であった黒羽藩城代家老浄法寺図書(号桃雪)宅と、その弟鹿子畑豊明(同翠桃)宅であった。
 翠桃宅のあった余瀬地区は、律令制により全国に設置された七道のひとつである「東山道」(平安時代においては関街道又は秀衡街道)が通り、その宿駅(粟野宿)として栄え、また室町時代から戦国期にかけては、大関氏(のちの黒羽藩主)の居城(白旗城)があり、交通・軍事の要衝の地でもあった。
 芭蕉は翠桃宅に5泊逗留する中で、歌仙の興行を行ったり、ここを起点に犬追物の跡や、篠原の玉藻の古墳、金丸八幡宮(那須神社)などを訪れ、多くの句を残している。 現在でも道路の方向や経路は、芭蕉が訪ねた当時の状況とほぼ変わらない面影を残しながら、南は大田原、佐久山に通じ、北は次に向かった那須や白河へと通じており、往時俳聖が辿った軌跡を訪ねることのできる地である。」

    

  


白旗城 大田原市余瀬

 白旗城の名は、源頼義・義家父子が奥州の安倍頼時を討伐に出かける際、
 この山に白幡をひるがえし、軍をそろえたことにはじまります。
 源義経は、治承4(1180)年、藤原秀衡から差し向けられた佐藤継信・忠信兄弟等を従え鎌倉へ参じます。
 源義経も、祖先の例にならってこの山に立ち寄ったといわれています。

(説明板)
「大田原市指定文化財 白旗城跡(本城山) 昭和四十六年二月十二日指定
 白旗城は、大関氏の室町時代から戦国時代の拠点で、応永期(一三九四〜一四二八)に大関増清が松野(馬頭町)より移り、天正四年(一五七六)大関高増が黒羽城に移るまでの居城である。那珂川支流の湯坂川沿いの南北に連なる白旗丘陵南端部(標高二〇〇メートル前後)で、南北約五〇〇メートル、東西約一五〇メートル、面積約七・五ヘクタールの連郭式の山城である。本城(本丸)、北城(二の丸)などの曲輪が、空堀と土塁によって区画されている。
 麓には、東山道(中世には関街道)が通じ、粟野宿(余瀬の集落)があり、交通・軍事の要衝の地であった。城郭の北に大雄寺、南に白旗山帰一寺・直箟明神、余瀬の集落に新善光寺や光明寺といったように、寺社も要所に配されていた。
 「白旗」の名は、源頼義が奥州の安倍頼時を攻めた際、ここで白旗を翻して軍揃えをなしたことに拠るという。また、余瀬のという地名については、当地で軍勢を寄せ集めたことから、寄勢と称され、後で余瀬と改められたともいう。
  大田原市教育委員会」

   

  

義経塚>

 義経が奥州から鎌倉に上る際、那須資隆の子・為隆、宗隆(与一)と主従の契りを結び、
 その時に築かれたのが義経塚と言われています。

    

賀茂神社> 大田原市余瀬331

 金属製の新しい鳥居が奉納されています(平成23年11月23日建立)。

 「賀茂神社のゆらい」によると、
  源頼義・義家父子は本社に戦勝祈願をしました。
  義経はその昔頼義父子がこの地で軍勢を揃えた事を聞き、
  白旗山に旗を立てて兵を募り、為隆と与一が馳せ参じます。
  義経は本社に戦勝を祈願し、
  白旗山の南端に塚を築き(義経塚)白旗観音を側に創立しました。」

(説明板)
「賀茂神社のゆらい
【沿革】
 賀茂神社は、社伝によれば、醍醐天皇の延喜13年の夏、当地方が大旱魃であったので、駅長粟野行磨は山城国上加茂神社(五穀豊穣の神の雷神を祀る)に詣でて、懇に祈願し分霊を請い受けて帰り、粟野駅の西丘(現白旗城跡本城山の入口で、古雷神と称している場所)に勧請し雨乞をしたところ、たちまち降雨があったという。粟野駅の総鎮守神として駅民は尊敬した。後に現位置に社殿は移された。
 永承6年(1051)、源頼義、義家が阿部頼時征討のため奥州下向の途次、当駅に来て本社に戦勝を祈願し、軍勢を率いて西の丘に登り、白旗を翻えして気勢を挙げた。(以後この丘を白旗山と称し、粟野駅の西側を白旗駅といい、東側に軍勢を寄せ集めたので寄勢宿と名づけたという)
 乱平らぎ帰途神徳に報いて神領二町歩を寄進した。(今その田のある所を、字八幡田と称している)
 治承4年(1180)、源義経は兄頼朝の陣に赴く路次、当駅に宿陣し、その昔頼義父子がこの地で軍勢を揃えたことを聞き、白旗山に白旗を立てて兵を募った。那須資隆の十男十郎為隆、十一男余一郎宗隆兄弟が馳せ参じ、主従の契を結んだ。
 義経は臣下を率い本社に詣でて戦勝を祈願した。また白旗山の南端に塚を築き(今に伝えて義経塚という)白旗観音を側に創立した。
 文治3年(1187)那須余一宗隆は、那須の総領であるを以て、本社に神領20石を寄進した。
 その後永禄3年(1560)大関高増が社領20石を本社に寄進した、と言われている。
(建造物)(略)
 平成19年9月」

    

薬師堂>

  

直箟(すぐの)神社> 大田原市余瀬371

 与一が使った矢の産地に、与一が創建した直箟神社があります。
 「金丸八幡宮に一竿より二股に分かれた竹が古来より神宝として伝わっている。
  金丸八幡宮の森と、向かい側の白旗山との間に、直箟という山があった。
  あるとき与一に、この直箟の森に生えている二またの竹で製した弓は、
  必ず一発必中で射ることができるという夢じらしがあった。
  それで与一は直箟の森に行ってさがしたところ、夢の中で見た二股の
  矢竹があった。扇の的を射た矢は、この二股竹で製した弓矢だと伝えられている。
  直箟の森にあった直箟神社は、那須与一が屋島の合戦の後、矢竹を奉賽するために
  創建したと伝えられている。」(大野氏の記述を引用)

 那須郡誌(大正13年)によると
 「直箟の森は、川西町大字余瀬字直箟の南にあり、与一の矢箟はこの森の篠にてつくられた。
  2本並んで節がそろって発生。与一は直箟神社を建立し、祠官を置いてこれを守らしむ。
  この祠官は直箟氏を称した。直箟氏は現在は農を営み、直箟氏の私社に帰して衰微。
  那須郡は古来から弓矢の産地のようで、正倉院御物に下毛野那須郷と記された矢束があり
  余瀬の地は古くから弓矢を産し、那須郷の貢物として、朝廷に納められていたのかもしれない。」
  等の記述があります。

 同じく那須郡誌によると、芭蕉を金丸八幡宮へ案内する途中、直箟神社に案内し、
 与一の扇の的の弓矢の産地であることを説明したが、翁の感嘆を惹くことがなかったので、
 記録にとどまらなかったのだろうとしています。

【直箟神社の現況】 大田原市余瀬
 現地看板地図に「本直箟明神跡」があり、直箟の森は切り開かれ田んぼになっています。
 享保年間に移転したらしい直箟神社を見つけました。
 白旗城跡にある義経塚の南にあります。
 参道の石階段は荒れ放題で体をなしていません。参道からは来られないでしょう。
 倒壊しまくりの石板がごろごろ、祠も崩れかけ傾いています。
 朽ち果てていくこと必定の印象です。どうにかなりませんかね。
 →崩れかけていた祠や倒壊していた燈籠は修復され、境内もきれいに整備されました。

  

  

     


白旗山西教寺 大田原市余瀬435

 黒羽藩主大関政増に嫁いだシャン姫(徳川家康の娘)の自仏「木造阿弥陀如来立像」が本尊。
 栃木県指定文化財です。
 「重要文化財 阿弥陀如来立像」の石碑が横倒しになっていましたが、立ち直っているでしょう。
 ご本尊は、長松院法王寺(シャン姫の開基)の本尊仏でしたが、長松院法王寺は
 明治初年廃寺(黒羽田町西崖共同墓地に碑が残る)となり、
 西教寺の本尊仏として迎えられています。

 「かさねとは八重撫子の名なるべし 曽良」の句碑があります。

(説明板)
「松尾芭蕉と曾良は、元禄二年四月三日(陽暦五月二十一日・一六八九年)に日光より余市、船入、玉入、沢村、大田原を経て黒羽の余瀬に住む鹿子畑翆桃を訪ねた。
 『おくのほそ道』に「那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかゝりて、直道をゆかんとす。
 明ければ又野中を行。そこに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、野夫といへども、さすがに情しらぬには非ず。」とある。目じるしとてない那須野の原の道であるので、道なれたこの馬に乗って行き、馬が止まったら返してくださいと、貸してくれた。「ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独は小姫にて、名を「かさね」と云。聞なれぬ名のやさしかりければ、かさねとは八重撫子の名成べし 曾良」とある。まことに、那須野の有情農夫と八重撫子のようなかわいらしい小娘の挿話に心暖まるものがある。」

    

    


鹿子畑翠桃邸跡の入口 大田原市余瀬

 正教寺近くに「鹿子畑翠桃邸跡入口」の標柱があります。
 黒羽町教育委員会昭和59年3月とあります。
 この標柱の細道に入ってすぐに「鹿子畑翠桃邸跡と墓地」があります。

  


鹿子畑邸跡 大田原市余瀬522

 元禄2(1689)年4月、芭蕉は黒羽を訪れ、翠桃宅に5泊、桃雪邸に8泊と長期滞在します。
 兄弟は、江戸に住んでいた頃、芭蕉の俳諧を学んでいました。
 兄弟は親類・知人を総動員して師を厚くもてなし、郊外の寺社・名所旧跡を案内しました。
 「鹿子畑翠桃墓地」は大田原市指定史跡となっています。

    

   


鹿子畑高明〜元禄2(1689)年1月

 旧黒羽町説明板によると、
「鹿子畑氏はもと大田原氏に属した。鹿子畑能登の代に高増が大田原氏から出て大関氏を継ぐに際し、能登は少年高増の後見人として来たり、白旗城下の余瀬に居を構え子孫に伝えた。後の代に黒羽堀之内に移住し、翠桃の邸宅跡は土塁が周り、土手の内と称された。現在は水田と化し、この北隣に墓地のみが残る。(以下略)」

 さくら市鹿子畑の鹿子畑氏館は、高増に従って鹿子畑氏も余瀬に移ったので、廃館となります。
 翠桃の父高明の墓碑が並び建っているとのことですが一番右かな?
 鹿子畑左内高明は、黒羽藩主増親と、その後を継いだ藩主増栄の下での家老で、
 正室は月桂院(家康の娘「シャン姫」の娘)の娘です。

 藩主増栄の下で、藩主の意向を受けて徹底的な検地を行い、検地は給人に対しても容赦なく行われ、様々な改革を行います。
 給人たちが反発、家老を切腹させようと図りますが失敗(寛文5(1665)年)します。
 藩主増栄はやむなく寛文7(1667)年に鹿子畑高明を追放しますが、給人たちも翌寛文8(1668)年にそろって追放となります。

 高明は兄弟を連れて江戸在住の岡備前守の臣・細野方へ寄寓し、黒羽藩籍を没収されていたために岡と改性します。
 追放を受けてから12年後の延宝7(1679)年、黒羽に戻ります。

(説明板)
「鹿子畑翠桃邸跡と墓地
 「おくのほそ道」行脚の途次、芭蕉は余瀬に住む門弟の鹿子畑翠桃(豊明二十八歳)を尋ねた。時に元禄二年四月三日(陽暦五月二十一日一六八九)であった。翁の黒羽滞在十三泊十四日の中で、兄浄法寺桃雪(高勝二十九歳城代家老、郭内に住む)方と、弟翠桃方に交互に泊り、その間郊外を逍遙しては、歴史・伝説の地を訪い、寺社に詣でまた歌仙も興行した。
  奈(那)須余瀬 翠桃を尋て
 秣おふ人を枝折の夏野哉 芭蕉
 青き覆盆子こぼす椎の葉 翠桃
 鹿子畑氏はもと大田原氏に属した。鹿子畑能登の代に、高増(後に美作守、安硯)が大田原氏から出て大関氏を嗣ぐに際し、能登は少年高増の後見人として来たり、白旗城下の余瀬に居を構え子孫に伝えた。後の代に黒羽堀之内に移住し、翠桃の邸宅跡は土塁が周り、土手の内と称された。現在は水田と化し、この北隣に墓地のみ残る。
 翠桃の墓碑には「不説軒一忠恕唯庵主」とあり、辞世の
  きゆるとは我はおもはじ露の玉
    色こそかはれ花ともみゆ覧
も刻まれてある。なお翠桃の父佐内高明の墓碑、修験光明寺源光室(高明の女)の墓碑も並び建っている。 芭蕉の里黒羽町」

  

浄法寺図書 1661-1730年

 鹿子畑高明の長男で、名は高勝。桃雪は俳号です。
 母(月桂院の娘)の実家である浄法寺家を継ぎ、黒羽藩城代家老となり図書(ずしょ)と称しました。
 藩主大関増恒(満2歳1か月で藩主を継ぐ)を助け、芭蕉訪問時は29歳(数え)の城代家老です。
 芭蕉の黒羽訪問時は、藩主は満2歳4か月(数え4歳)江戸屋敷在住で、領地に就いたのは宝永2(1705)年でした。
 図書は晩年致仕(ちし:官職を退いて引退)して随如軒と号しました。
 浄法寺図書夫妻の墓碑は大雄寺にあり、側に図書の祖母である月桂院の宝篋印塔があります。

鹿子畑翠桃 1662-1728年

 鹿子畑高明の二男で、名は豊明。翠桃は俳号です。
 芭蕉が黒羽を訪問した元禄2年4月の直前の1月に、鹿子畑高明は亡くなり、
 兄の高勝が養子となり浄法寺家を継いだため、鹿子畑家は豊明が継ぎます。
 単性無縫塔(丸い石塔)が翠桃の墓碑です。

  

修験光明寺津田源光室

 鹿子畑高明の娘で、兄弟の妹。修験光明寺津田源光に嫁ぎます。
 高明の娘の墓碑も並び建っているとのことなので、右隣の墓碑かな?それとももっと右?。

<修験光明寺>

 説明板などが残るのみです。元々は与一が建立しています。
 桃雪の妹が、津田源光(修験光明寺権大僧都)の妻でした。
 津田住職は芭蕉をここにお誘いしています。
 明治初年に廃寺となっています。
 那須郡誌によれば「修験道の光明寺(現存して津田氏と称す)」とあり
 少なくとも大正時代にはまだ建物は現存し、津田氏が廃寺を守っていたようです。

(説明板)
「松尾芭蕉は元禄二年四月九日(陽暦五月二十七日一六八九年)に光明寺へ招かれ、昼より夜五つ過ぎ(午後九時過)迄で浄法寺図書宅へ帰った。
『おくのほそ道』に「修験光明寺と云有、そこにまねかれて、行者堂を拝す。」
 「夏山に足駄を拝む首途哉」
とある。これは光明寺の行者堂に安置されていた役の行者小角の像を拝し、芭蕉がこれからの長途の安全を祈り、その健脚にあやかろうとして詠んだものであろう。
 伝えには那須与一宗隆が屋島に出陣する際、山城国伏見の光明山即成院の弥陀仏に武運長久を祈願して、遂に扇の的を射て武名を輝かせることができたという。与一は帰国後文治二年(一一八六)余瀬村のこの地に弥陀物を勧請して、即成山光明寺を建立したという。その後久しく廃絶していたが、永正年間烏山城主那須資実が、近江の大津に住んでいた天台宗の僧無室(元津田八郎 五郎)を招聘し、光明寺を再興して修験道に改め、無室は津田源弘と称した。
 芭蕉が招かれた当時は、第七代津田源光大僧都で、妻は鹿子畑左内の娘なので翠桃が口添えをしたのであろう。 芭蕉の里」

    

「夏山に足駄を拝む首途哉」

 松尾芭蕉は元禄2年4月9日(陽暦5月27日1689年)に光明寺へ招かれました。
 『おくのほそ道』に「修験光明寺と云有、そこにまねかれて、行者堂を拝す。」とあります。
 松尾芭蕉は、光明寺の行者堂に安置されていた一本歯の高足駄を履く役行者小角の像を拝し、
 その健脚にあやかろうと旅の安全を祈って句を詠みました。
 黒羽町観光協会(当時)が昭和34(1959)年に建立した句碑があります。

  


【参考】

 大関高増   -1578 1529〜1598
   清増 1578-1587 1565(高増の次男)〜1587
   晴増 1587-1596 1560(高増の長男)〜1596
 大関資増 1596-1605 1576(高増の三男)〜1607 関ヶ原の戦い後、家康より加増され大名となる。
 大関政増 1605-1616 1591(晴増の長男)〜1616.7.13 正室はシャン姫(1593〜1662)
            子は、高増(長男)、増広(次男)、娘(那須資重継室)、娘(浄法寺茂明室:月桂院)
 大関高増 1616-1646 1611(政増の長男)〜1646.9.30 母はシャン姫。娘(浄法寺高政室)等。
 大関増親 1646-1662 1635(高増の長男)〜1662.4.1 嗣子無く早世。
 大関増栄 1662-1688 1639(高増の次男)〜1688.12.13 兄増親に実子なく弟の増栄が継ぐ。
 大関増恒 1689-1738 1686.11.19〜1759 増栄の孫、父増茂が早世(1688.10.22)のため1689年1月に満2歳1か月(数え4歳)で継ぐ。
                     江戸在住で領地に就いたのは宝永2年(1705)。
  松尾芭蕉 1689年4月 黒羽訪問


那須神社(金丸八幡宮) 大田原市南金丸1628
 
 松尾芭蕉が訪れています。
 「八幡宮に詣。与一扇の的を射し時、「別しては我国氏神正八まん」とちかひしも此神社にて侍と聞ば、感應殊しきりに覚えらる。」
 源頼義、義家親子が、戦勝祈願したと伝えられます。

    

   

 国指定名勝「おくのほそ道風景地 八幡宮(那須神社境内)」
 国重要文化財「手水舟」「灯篭」「楼門」「本殿」

   

<手水舟> 国指定重要文化財

 手水舟は国指定重要文化財となっています。
 寛永19年(1642)黒羽城主大関土佐守高増が、氏神である那須神社に祈願成就処として奉納したもの。

(説明板)
「国指定重要文化財(建造物)那須神社附指定
  平成26年1月27日指定 大田原市南金丸1628 所有者 那須神社
 手水舟一基
 寛永19年(1642)黒羽藩主大関高増(1611〜46)が、氏神である那須神社に所願成就のために奉納したものです。
 高さ77cm、幅157cm、奥行90cmで、芦野石を用いており、全面には以下の銘文が刻されています。
 「奉造立手水舟一所願成就処
  干時寛永十九年壬午五月吉祥辰日欽白
  施主大関土佐守高増」
  大田原市教育委員会」

   

<楼門> 国指定重要文化財

 楼門は寛永19(1642)年に三代大関高増により再建されました。

     

     

<拝殿/本殿>

 本殿は、国の重文指定です。
 本殿前の石灯篭も国の重文指定です。

(説明板)
「国指定重要文化財(建造物)
  平成26年 1月27日指定 大田原市南金丸162 所有者 那須神社
 石灯篭一対
 那須神社拝殿前に配置されているこの石灯篭は、寛永19年(1642)3月黒羽藩主大関高増が所願成就のために奉納したものです。高さは基礎から宝珠まで約290cm、竿直径約45cmです。
 石質は芦野石と思われ、基礎・中台・火袋・笠・請花は共に六角形で、笠の蕨手は大きく渦巻模様です。笠は円筒形で中間に節があり、この部分に大関土佐守高増が奉納したという銘文がされています。
  大田原市教育委員会」

     

<境内社>

 那須神社境内案内図によると、右から高良社、淡島社、足尾社。
 しかしながら、足尾社とされている社には、わらじの奉納なく、
 高良社とされている社に、わらじが奉納されています。
 もしかして足尾社は一番右の可能性ありですかね?

     

     

<金丸塚>

 金丸塚の南が南金丸、北が北金丸となります。
 金丸塚の案内板が新しくなっていて、古い板は横に放置されていました。

    
                                          放置されていた案内板                      以前の案内板
    

<境内社>

 金丸塚の右に神明社、左に愛宕社。

    


蜂巣】

犬追物跡・犬追馬場跡 大田原市蜂巣

 くらしの館からの道沿いにあります。

(説明板)
「近衛帝の久寿年中、勅を奉じて三浦介義明・千葉介常胤上総介広常が、玉藻前が狐と化して逃げて那須野に隠れ棲んでいるのを退治するために、犬を狐にみたてて追い射る武技を行った跡という。俗に「犬追物跡」または「犬射の築地」の名があり、側に「犬追馬場跡」とか「犬射馬場」と称せられているところがある。
 松尾芭蕉は元禄二年四月十二日(陽暦五月三十日一六八九年)浄法寺桃雪の案内で「犬追物跡」を一見した。おそらく、犬追物の史話より謡曲「殺生石」に興味を覚えたからであろう。
 曲によれば「三浦の介・上総の介両人に、綸旨をなされつつ、那須野の化生の者を退治せよとの勅を受けて、野干は犬に似たれば犬にて稽古、あるべしと百日犬をぞ射たりける。これ犬追物の初めとかや」とある。」

   

玉藻稲荷神社 大田原市蜂巣

 作神さまと玉藻の前(九尾の狐)の神霊を祭った社です。
 石の鳥居にも、いわれなどが記されています。
 碑が2つあります。
 「秣負おふ 人を枝折の 夏野哉 芭蕉」芭蕉句碑(昭和33(1935)年建立)
 「武士の矢並つくろふ 籠手の上に 霰たばしる那須の篠原」源実朝歌碑

(説明板)
「篠原玉藻稲荷神社
 ここは、お稲荷さんと称える作神さまと玉藻の前(九尾の狐)の神霊とを祭った由緒深い社である。
 宝前の社殿改建記念碑と石の鳥居の柱にいわれなどが記してある。
 建久四年(一一九三)源頼朝が那須遊猟のときこの社に参詣したという伝えがある。また元禄二年四月十二日(陽暦五月三十日一六八九)松尾芭蕉は、この篠原の地を訪れている。『おくのほそ道』に
 「ひとひ郊外に消遥して、犬追物の跡を一見し那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。」とある。
 境内に芭蕉の句碑「秣おふ...」と源実朝の歌碑「武士の矢並みつくろふ...」がある。また九尾の狐退治の伝承地としての「鏡が池」と「狐塚」の霊を移したという祠がある。なお「狐塚址」は、ここより北東の地の県道沿いにある。 芭蕉の里 黒羽町」

      

    

鏡が池・狐塚祠 大田原市蜂巣

 玉藻伝説のある鏡が池です。狐塚祠の鳥居と狐塚祠があります。

(説明板)
「八溝県立自然公園 鏡が池
三浦介義明が九尾の狐を追跡中姿を見失なってしまったが、この池のほとりに立ってあたりを見まわしたところ池の面近くに延びた桜の木の枝に蝉の姿に化けている孤の正体が池にうつったので、三浦介は難なく九尾の狐を狩ったと伝えられ、これが鏡が池と呼ばれるようになったという。」

    

狐塚之址 大田原市蜂巣

 「犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて玉藻の前の古墳をとふ。」(おくのほそ道)

 「古墳」は、神社の1kmほど北東の旧大田原市との境の県道際、「篠原境」バス停留所の近くにあります。
 「狐塚之址」(昭和21年)の40センチほどの小さい石碑(昭和21年)があります。

 那須郡誌によれば、元々は「古塚」だったのを、九尾の狐の伝説の篠原にあるから狐塚と書くようになり、
 隣村との境界論に大岡裁きに篠原の勝訴となります。

 「川西町(黒羽町)大字蜂巣の西北隅、金田村(大田原市)大字小滝との境界線に
  狐塚(又きつね塚)と称する円墳がある。
  蓋し本義は古塚(こづか)であるのを、九尾の狐の伝説を生んだ篠原地内にあるので、
  狐塚と書し、やがて「きつね塚」と訛ったのである。
  併し古き絵図面には狐塚とある為め、小滝村方と秣場境界論に、
  尾多賀村(蜂巣)に属する塚だと主張して、
  大岡裁きに勝訴となったのは或は嘘から出た誠ではなかろうか」(那須郡誌より)

    


雲厳寺(うんがんじ) 大田原市雲岩寺27

 芭蕉が黒羽滞在時に訪れた地です。芭蕉の句碑があります。
 仏頂和尚の句と同じ碑に刻まれています。

 芭蕉「木啄も庵は破らず夏木立」
 仏頂和尚「竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば」

(説明板)
「松尾芭蕉は元禄二年四月五日(陽暦五月二十三日一六八九年)に雲厳寺にある仏頂和尚の山居の跡をみようと人々をいざない山道をにぎやかにうち興じ、遠近の景を賞でながら山門をくぐった。
 『おくのほそ道』に「かの跡はいづくのほどにやと後の山によぢのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがことし。
  木啄も庵はやぶらず夏木立
と、とりあへぬ一句を柱に残侍し」とある。
 仏頂和尚は、常陸国鹿島根本寺の住職で、鹿島神宮との寺領争いを提訴のために江戸深川の臨川庵に滞在していた。芭蕉はこの時に仏頂和尚との交渉を持ったともいう。また参禅の師ともいう。和尚の山居の歌に「たて横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやしあめなかりせば」があり、芭蕉が山居の跡をみようとしたいわれの歌でもある。
 芭蕉は、樹下石上の小庵をなつかしみつつ、さすがの木啄も、この高徳な仏頂和尚の庵だけは破らぬという礼讃の句を柱に残して惜別した。
  芭蕉の里 くろばね」

    

 雲巌寺入口の武茂川に架かる朱塗りの橋「瓜てつ橋」、「仏殿」、「禅宗東山雲厳寺由緒」
 JR東日本「大人の休日倶楽部」の吉永小百合さんが主演するCM「黒羽の芭蕉篇」で雲厳寺が紹介されました(2018年)。
 瓜てつ橋の中央に吉永小百合さんが立っていました。

    

 境内案内図に「浴室」と記されていたので、引き込まれるように見学。
 薪風呂です。長年使用されていない様子です。
 雲厳寺は林間学校をやっていたことがあるので、その当時に利用されていたのでしょうか。

    


○「かさねとは八重撫子の名なるべし 曽良」 かさね橋 矢板市沢〜大田原市薄葉

「かさねとは八重撫子の名なるべし 曽良」
 矢板から県道52号を進み、三叉路交差点を左手の栃木県立那須学園に沿って左折。
 箒川にかかる「かさね橋」の橋の両端にブロンズ製の碑があります。

    

    

  こちらは栃木県那須学園入口です。

   


○「かさねとは八重撫子の名なる可し 曽良」 大田原市実取

 薄葉からなんじゃもんじゃ通に入る直前に、曽良の「かさねとは〜」句碑があります。
 昭和51(1976)年建立(那須野文学散歩会)。

    


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