日光の女人禁制について、その痕跡をめぐります。
いろは坂(下り)を極めます。
○ 馬返し/是より二荒山神社境内
○ 女人堂/男体山逢拝所
○ 巫女石
○ 牛石
○ 日光における女人禁制と湯元温泉
○ 黒髪山の神のご専用「笹湯」(だれも入れない)
○ 第一いろは坂(下り)を極める
〇 第二いろは坂(上り)
いろは坂の入口手前に「馬返し」があります。みなさん、トイレ休憩でよく利用しているところ。
馬返しの先、いろは坂の下りきった所に「是より二荒山神社境内」の碑があります。
いろは坂のこの碑から上は、二荒山神社の境内ということですね、広大!
かつての栄光をみると、二荒山は保延年間(1135〜41)には日光山と呼ばれるようになり、
日光山僧は源氏方の一大僧兵集団で、各地出兵の御礼に文治2(1186)年、源頼朝に領地を寄与されています。
寺領およそ十八万石、比叡山に次いで2番目の大寺領でした。
天正18(1590)年、秀吉の小田原城攻めの際、北条氏に加担し秀吉の怒りをかい、
寺領没収または焼き討ちとなり、日光山は滅亡状態となります。
(湯西川温泉も、秀吉の怒りをかう前は二荒山湯西川郷寺領で、
湯西川の民宿やま久の大旦那が詳しく書かれているので、内容を要約して引用しました。引用元。)
「馬返し」の地名は、地形的なものに加えて、宗教的な由来によるものです。
馬は、いろは坂への乗り入れが禁じられ、
女性は、馬返しの先の男体山遙拝所の女人堂までいくことが許されました。
女人堂から上は女人禁制(馬は馬返しまで)でしたが、
ある巫女が、神に仕える身だから山に登っても大丈夫と思ったけれども、
中禅寺湖で身がすくみ、そのまま石になってしまいました(中宮祠鳥居横にある巫女石)。
馬は、馬返しの先、「是より二荒山神社境内」に進むと、石になってしまいます。
交通の難所には、馬頭観世音群をよく見かけますが、
いろは坂から上では馬は石になっているので、ここでは全くみられません。
明治4年「女人登山不苦旨公布」により、女人禁制が解かれました。
この公布のおかげで、馬も馬返しから先へ進んでも石になるおそれはなくなりました。
今では、車も石になる心配をせずに境内の神領に入っていくことができます。
(説明板)
「馬返し
いろは坂は古くは男体山や中禅寺への登拝者が通っていた道であった。明治初期まで奥日光は女人牛馬禁制で、女性や牛馬は坂を上れなかった。そのため上り口は「馬返(し」と呼ばれ、女性が男体山を拝んで引き返した場所には女人堂が残っている。」
馬返しの壁の周りには、女人禁制がらみ等の木板があります。
明治4年(1871年)まで奥日光は女人牛馬禁制で、女性や牛馬は坂を上れませんでした。
そのため上り口は「馬返」と呼ばれ、女性が男体山を拝んで引き返した場所が「女人堂」です。
(木版説明)
「「馬返し」の地名は地形的なものに加えて明治以前の日光では中禅寺が霊場として女人牛馬禁制、つまり女人と牛馬の登山を禁じた宗教的な由来によるものであり
女性はこの女人堂から男体山を遥拝したものである」
中禅寺湖畔の中宮祠鳥居横に「巫女石」があります。ごつごつした石がそれです。
明治4年に女人禁制がとかれましたが、それまでは、女人堂から上は女人禁制(牛馬は馬返しまで)。
巫女が石になってしまったところです。
「二荒山信仰旧跡 巫女石」
(木版説明)
「女人禁制の山でも神に仕える身なればと禁を犯して女人堂を越えて登山した巫女が湖畔まで来ると忽ち身が竦み石に化したと伝えられる。」
掟を破って、牛を引いてきたら、石になりました(所在不明・復元物)。
「日光山志」(植田孟縉 文政7(1824)年)にも、「巫女石」「牛石」の記述があります。
(説明板)
「奥日光の奇石 牛石
平安時代より、この地は男体山登拝の為の霊場として栄え、明治時代以前までは厳しい「おきて」がありました。
中でも、「馬返」より上は牛馬禁制の結界でありました。これを破って牛を引いてきたところ石にされたと伝えられるのが、「牛石」であり、牛が寝そべった姿をしていたと云われています。
明治時代以降、存在が不明になっていたものをここに多くの人々の手により復元を致しました。他には、女人禁制を破って、女の人がこの地に来た為、石にされたと云われる「巫女石」が、赤い大鳥居の脇にあります。
平成二十一年巳丑十月十一日 復元完成」
道路工事の際に出土した、牛石の一部ではないかと言われているものが、
東参道の鳥居の手前にあります。
(説明板)
「牛石
明治5年まで、中禅寺湖畔は「女人禁制・牛馬禁制」に聖域でした。その禁を破った巫女は巫女石となり、牛は牛石になったといいます。この石は付近での道路工事の際に出土したものですが、かつてこの付近にあった「牛石」の一部ではないかと、いわれているものです。
(巫女石は、ここから華厳滝方面に650の大鳥居の脇にあります。)」
日光湯元も「女人禁断かつ肉食を許さざるの所」でしたが、
明治4(1871)年に「女人登山不苦旨公布」が出されました。
これを受け、鈴木、吉見の両湯守は、温泉場の規則を定め、鍋島県令の明断を得て願い出が許可され、
女性も入浴できる温泉場となりました。
下野鉱泉誌など明治の温泉案内書複数に同様の記載があります。
ビジターセンターの年表にも明治4(1871)年に奥日光の女人禁制がとかれたと記載されています。
太政官通達により神社仏閣地女人禁制が廃止されたのが明治5年のため、
男体山の女人禁制解除も明治5年と記載しているものをみかけますが、
正しくは、奥日光はこれより1年早い明治4(1871)年に解除されました。
女性だけではなく、だれもはいれなかった湯に「笹湯」がありました。
温泉に鹿とか鳩とか狢とかが入ったとの伝説はよくありますが
男体山の神さまが入浴したとのことで、神領の日光湯元らしい伝説です。
「黒髪山(男体山の別名)の神、故ありて玉体難傷の事あらせ給へ、
この温泉に浴して療効ありしとぞ。」
神様がけがをして療養したのは、老神と戦った時の傷のためでしょうか。
神様入湯伝説の由来ゆえ、「笹湯」では木欄を設けて堅く入浴を禁じていましたが、
女人禁制が解かれた時に、誰でも入浴できるようになりました。
以上、昔の複数の温泉案内書からまとめました。
「野州二荒山温泉之図」(歌川芳春 文政11年(1828)〜明治21年(1888))に笹湯を見ることができます。
笹湯・御所湯・姥湯・滝湯の4湯を「1室4所の湯」「4間湯」と呼び、
1軒の建物の中に4つの源泉があったとされています。
湯元全体では、湯元九湯「荒湯・自在湯・御所の湯・姥湯・笹湯・中湯・緞子湯・河原湯・鶴の湯」がありました。
一方通行区間に入ると、右手に「不動坂」の表示。
不動坂の左壁面に「白鳥神社(いろは坂の守護)」があります。
中間点に位置します。「32(ふ)」と「33(こ)」の間に、中の茶屋跡があります。標高1106m地点。
「中ノ茶屋」跡には、磁力があるといわれる「磁石石」があります。
説明板では、燈籠の台石を示しています。
他には、高原新田に由来する磁石石が高原新田と鬼怒川公園駅前にあります(別途記載)。
(木版説明)
「馬返しから中禅寺へのいろは坂の中間に旅人の憩場であった「中之茶屋」に磁気を帯びた巨石「磁石石」がある。」
明治9(1876)年の明治天皇行幸時に休憩されたのが「中ノ茶屋跡」です。
ここから、木々の間から下界が展望できます。
「41(み)」と「42(し)」の間。左:方等滝 右:般若滝
男体山の大薙の下に造られた方等上流砂防堰堤(国登録有形文化財)の下が方等滝です。
<日光山志>
日光山志に掲載されている方等滝/般若滝を見ると、江戸時代の中禅寺湖への古道は、
方等滝/般若滝の滝壺下を通っていたようです。
桟橋から間近に滝を見物できたようで、観瀑台も描かれています。
剣が峰展望所にあります。
当時の栃木県知事だった小平重吉氏の肖像画が刻まれています。
○女人堂跡 こちらで記載
すぐに、女人堂跡と説明書きのある朱色の建物が出てきます。
いろは坂下りカーブ番号「45(も)」と「46(せ)」の間にあります。かたくり群生地です。
○是よりニ荒山神社境内 こちらで記載
女人堂から、「47(す)」と「48(ん)」のカーブを下りきると、右手に発電所の入口があり、
そこに「是よりニ荒山神社境内」と記された石柱があります。
○馬返し こちらで記載
大谷川の枝沢の深沢橋を渡り、大谷川にかかる栄橋、幸橋を渡り、馬返しに至ります。
標高1173m。
カーブ番号「17(れ)」。駐車スペース充分です。
ロープウェイであがると、絶景が待っています。
明智平駐車場に「幸田文文学碑」があります。
平成15(2003)年11月建立と比較的あたらしいものです。
「日光男体山の崩れを見にでかけた。
ここでは崩壊を崩れとは呼ばず薙という。
薙ぎ払われ、薙切られた、辛い事変の故のことだろう。(以下略)
幸田文「崩れ」より」
○明智平パノラマレストハウス 日光市細尾町
明智平パノラマレストハウス(元ケーブルカー駅舎)は、2017年11月に解体され、
2018年7月に展望スペースが完成予定ですが工事は遅れています。
完成後の展望スペースです。
ロープウェイ乗り場もシンプルになりました。
真下は、ケーブルカーの遺構が、下界にまっしぐらに向かっています。
(説明板)
「日光鋼索鉄道(ケーブルカー)遺構について
Remains of the Nikko Cable Railway
この展望台の眼下にある階段は、日光鋼索鉄道(ケーブルカー)の遺構です。
日光鋼索鉄道は、馬返〜明智平(1.2km)に設置され、1932年(昭和7年)8月に営業を開始しました。開業前は、馬返から華厳の滝や中禅寺湖など奥日光へ通ずる道が現在の第1いろは坂しかなく、時間帯によって上り下りを分ける一方通行の道だったため、ケーブルカーが営業を開始したことで交通の利便性が向上されました。
浅草駅(東京)〜東武日光駅の鉄道輸送、東武日光駅〜馬返の軌道線(日光軌道線)、ケーブルカーやいろは坂を通るバス、1933年(昭和8年)11月に開業した明智平〜展望台を結ぶロープウェイとともに、東京から奥日光までの一貫輸送網が存在しました。
1965年(昭和40年)に第2いろは坂が開通すると、奥日光への観光は自動車へとシフトしていき、1970年(昭和45年)3月、開業から約38年の歴史に幕を下ろしました。 東武鉄道株式会社」