Discover 栃木 温泉文化遺産(温泉文化史)
 
 平重盛墓所/平貞能墓所/宇都宮朝綱墓所

  ○小松寺 
  ○安善寺
  ○妙雲禅尼墓碑
  ○宇都宮家累代の墓
 
 平家ゆかりの地 別頁

  ○ 平重盛・平貞能/宇都宮朝綱 墓所 本頁
  ○ 平家揚羽蝶平家獅子舞(塩原)
  ○ 「月夜川」「仏沢」と温泉(上塩原)
  ○ 吐月峰/飛来沢(門前)
  ○ 平家塚(門前温泉、川俣温泉、川俣湖温泉、湯西川温泉)
  ○ 平家杉/上栗山開運の湯
  ○ 湯西川の平家落人伝説考


小松寺 茨城県城里町上入野3912

 茨城県城里町は、栃木の益子町と接しており、近いです。
 小松寺にある平重盛のお墓(県指定文化財)にお参り。
 平重盛の守本尊「木造浮彫如意輪観音像」は国重文です。

 徳川斉昭(水戸藩第9代藩主)は天保14(1843)年に訪れ詠んだ歌が、
 「みやこより 引きし小松の 墓なれば 千歳の末も のこるぞと見ゆ」

 「白雲山 普明院 小松寺」と号します。
 石段左手に石碑「茨城百景」、右手に寺号標と史蹟碑があります。
 石段をのぼると杉並木の参道が続きます。

     

<唐門>

 寺の唐門は重盛の住んでいた小松御殿の門を模しています。
 説明板によると、大掾義幹によって建久2(1191)年に寄進されています。

(説明板)
「唐門(両唐破風中爵門)
 京都小松谷にあった平重盛邸の勅使門を模造した建造物で、常陸大掾義幹が建久二(一一九一)年に寄進したと伝える。(寺伝)
 特徴としては本柱が円柱、控柱が角柱で,柱の下に礎盤がある。柱の上部には精巧な籠彫が施されており,扉は桟唐戸である。
 建築様式上からは「向う唐門」という。
 昭和四七年十二月二七日 町指定建造物に指定された。
   城里町教育委員会」

    

<本堂/如意輪観世音>

 平重盛の念持仏「木造浮彫如意輪観音像」は国重文です。
 城里町教育委員会のHPに写真が掲載されています(こちら)。

 城里町の寺伝に従った説明板によると、平貞能は1182年にこの地を訪れたとありますが、貞能は1181年から1183年までは、九州鎮圧中のはずです。
 城里町の説明は矛盾があります。
 塩原温泉郷土史研究会の調べによると、平貞能一行は、かつて平将門の支配地であった常陸大掾を頼り、
 小松寺に平重盛の念持仏といわれる如意輪観音像を安置し、裏山の高台に平重盛の遺骨を埋葬し、病弱の得律禅尼を小松寺にお願いし、
 妙雲禅尼を伴い宇都宮朝綱をたより下野国にはいったとあります。
 そうすると、小松寺を訪れたのは、1183年か1184年となります。
 なお、義幹は1193年に失脚しています。

     

(説明板)
「小松寺
 宗派 真言宗智山派
 国指定重要文化財 木造浮彫如意輪観音像
 県指定史跡 内大臣平重盛墳墓
 天平十七(七四五年)行基菩薩の開山と伝えられ、養和二年(一一八二年)平貞能が得聿禪尼(平重盛夫人)を伴い、平重盛の遺骨をいだいて、この地に落ちのび出家して小松房以典と称し重盛の菩提をとむろったといわれる。水戸第二代藩主水戸光圀(義公)は,たびたびこの寺を訪れ、境内には手植えの枝垂桜がある。また水戸第九代藩主徳川斉昭(烈公)も天保十四(一八四三年)この寺を訪れ「みやこより 引きし小松の墓なれば 千歳の末ものこるとぞ見ゆ」と詠んでいる。この寺の如意輪観音像は,平重盛が高野山参詣の際、守護仏として授けられたものと伝えられ、約八・五センチメートルの小さな浮彫であるが、その作はきわめてすぐれたもので、光圀は、この文化財を永く後世に伝えるため厚い保護を加えた。裏山の中腹には、平重盛の墓「宝篋印塔」重盛夫人、平貞能の墓がある。
  城里町」

 

<歌碑>

 徳川斉昭(水戸藩第9代藩主)が天保14(1843)年に訪れ詠んだ歌が刻まれています。
 「みやこより 引きし小松の 墓なれば 千歳の末も のこるぞと見ゆ」

  

<観音堂> 城里町文化財

(説明板)
「観音堂
   城里町指定文化財(建造物)
 建久五(一一九四年)に建立されたと伝えられている。
 堂の面積は、二九、七平方メートル、屋根は入母屋造りで銅板葺きであるが、創建当時は柿葺きである。その尾垂小尻には龍が彫刻されている。
 内陣の来迎柱には、登龍の彫刻がされていて壁画は唐獅子が描かれ、格天井の絵は草花で統一されている。
 本尊は、十一面観音像(町指定文化財)が安置されている。
  城里町教育委員会」

   

<内大臣平重盛墳墓>

 内大臣平重盛墳墓は小松寺の本堂と観音堂の間の通路を通り、白雲山の急石階を約30m登った中腹にあります。
 平重盛の没後、家臣の平貞能はその遺骨を保持し、重盛夫人とその妹を伴い高野山にて出家後、平義幹領の常陸に入りました。
 この地に遺骨を埋葬し、宝篋印塔を建てたといわれています。重盛夫人は尼(得律禅尼)となって重盛公の供養をして過ごしたと言われています。
 重盛夫人は承久元(1219)年9月11日に69歳で亡くなり、
 平貞能は建久9(1198)年2月13日に89歳で亡くなりともにこの場所に葬られたと説明板にあります。

    

 平重盛の墓は、立ち入り禁止の柵が設けられた、苔がむし経年で角がとれ丸みを帯びた石段の上にあります。
 一段下の左に平貞能の墓、右に重盛夫人(相応院得律禅尼)の五輪塔(墓)があります。

     

 「小松内府遺骨塚碑」(明治二十八年十一月 徳川篤敬撰文并書)

  

「小松内府平重盛像」(肖像 野村文紹 国立国会図書館蔵)
  保延4(1138)年〜治承3年7月29日(1179年9月2日)

  


安善寺 栃木県益子町大平202

 安善寺は、鶏足山松林院安善寺と号し、平貞能が建久5(1194)年に創建したと伝えられています。
 標柱「史跡 平貞能草創之地」が建っています。
 すぐ近くには源頼朝に家系を賭して貞能預かりの許可を得た宇都宮朝綱が隠棲し、
 芳賀富士の山頂からは、平重盛と夫人の得律禅尼の墓が白雲山方面に望めます。
 この地を平貞能が選んだのは印象深く感じます。
 朝綱が源平合戦の初めに命を救ってくれた平貞能が隠棲するこの地を選んだのかもしれません。

    

 安善寺の地蔵堂床下が平貞能の墓とのこと(塩原温泉郷土史研究会調べ)。
 文化財の正慶2(1332)年銘の板碑があります。
 「安善寺創建者と伝えられる平貞能の百年忌供養として建てられたといわれている。
  碑面には、右側に「其佛本願力聞名欲往生」中央に「正慶貮季癸酉三月九日」
  左側に「皆悉到彼国自至不退転」と刻まれている。」(益子町文化財説明引用)

    

   


妙雲禅尼墓碑 妙雲寺

 妙雲禅尼が亡くなり、墓碑九重塔を平貞能一行は建てます。
 現在のものは建て直されたものです。
 墓じるしとして植えられた三本の大杉に、歴史の経過を感じます。
 下からも上からも立入禁止で近寄れません。カメラのズームでしか近寄れません。

    

   


宇都宮家累代の墓 栃木県益子町上大羽941

 益子に宇都宮家累代の墓(県史跡)があります。
 宇都宮朝綱公のお墓にお参り。
 朝綱は尾羽寺(現存せず、地蔵堂のみ現存)を建立し、この地に隠棲しました。

  ※宇都宮朝綱の墓石は新調されたようです(写真は以前の墓石です)。

(説明板)
「宇都宮家累代の墓 昭和四十二年一月二十日栃木県指定史跡
 建久五年(一一九四)宇都宮左衛尉朝綱は土佐の国に配流赦免の後、家督を頼綱(宇都宮城主五代)に譲り大羽の地に隠棲した。朝綱はこの地に土佐明神を勧請して綱神社を創建し、更に大羽山地蔵院(墓所より北方約百米)を開山創立した。そして名を尾羽入道と改め、初代宗円、二代宗綱の墓を築いてから、大羽の地は宇都宮家の墳墓の地と定まった。又墓付家老をおき家臣を常住させ墓域の管理守護に当たらせた。慶長二年(一五区七)宇都宮二十二代城主国綱の時、家督相続について豊臣秀吉の怒りに触れ闕所となり宇都宮城を離れたが、二十三代義綱が水戸藩の客将となってからも祭祀供養は続けられ今日に至っている。鎌倉初期から大正時代まで三十三代に亘って造営され続いた募域は整然としており、このような長期に亘る武将の墓域造営は全国にも類例は少ない。特に宇都宮氏が水戸藩に移ってからも、その遺徳とこの地に定住した家臣団が、この霊域を守護し続けた関係で現在でも「御廟」と言われ守り続けられている。  益子町教育委員会」

    


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