「尾崎紅葉」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
慶応3年12月16日〜明治36年10月30日(1868年1月10日〜1903年10月30日)
【栃木】
○ 塩原がま石園地 尾崎紅葉の碑
○ 畑下温泉「清琴楼」 紅葉胸像
○ 塩原妙雲寺 尾崎紅葉の句碑(別頁)
【東京/熱海】
○ 港区芝大門 尾崎紅葉生誕の地(別頁)
○ 「相馬屋製」原稿用紙の考案(別頁)
○ 青山霊園 尾崎紅葉の墓 (別頁)
○ 熱海湯宿一番地 紅葉山人筆塚/紅葉の句碑(別頁)
碑文は「続々金色夜叉」の始めの部分が刻まれています。
「俥を駆りて白羽坂を踰えてより、回顧橋に三十尺の飛瀑をふみて、山中の景は始て奇なり。
之より行きて道有れば水有り、水有れば必ず橋有り、全渓にして三十橋。山有れば巌有り、
巌有れば必ず瀑有り、全嶺にして七十瀑。地有れば泉有り、泉有れば必ず熱有り、
全村にして四十五湯、猶数ふれば十二勝、十六名所七不思議、誰か一々探り得べき。」
(説明板)
「尾崎紅葉の碑
「俥を駆りて白羽坂を踰えてより、回顧橋に三十尺の飛瀑をふみて、山中の景は始て奇なり。之より行きて道有れば水有り、水有れば必ず橋有り、全渓にして三十橋。山有れば巌有り、巌有れば必ず瀑有り、全嶺にして七十瀑。地有れば泉有り、泉有れば必ず熱有り、全村にして四十五湯、猶数ふれば十二勝、十六名所七不思議、誰か一々探り得べき。」金色夜叉より
尾崎紅葉の代表作「金色夜叉」は、明治三十年から三十五年まで断続的に読売新聞に連載されたが、紅葉死去のため未完に終わっている。
尾崎紅葉は明治三十二年六月九日から三泊四日で塩原を訪ね、名所旧跡を始め食事の内容までこと細かに書き留め、後に「塩原紀行」と題して発表されている。
碑文は、明治三十三年十二月に書き継いだ「続々金色夜叉」の始めの部分で特に名分として名高く、言葉をつくして塩原の風景を賞賛している。
この碑は、塩原の名を全国に広めた紅葉の功績を記念して、塩原温泉の入口であるこの地に建立されたものです。
【尾崎紅葉】
一八六七年(慶応三)〜一九〇三年(明治三十六)、本名徳太郎。
江戸生まれ。明治十八年「硯友社」という近代文学最初の文学結社を結成、機関誌の第一号「我楽多文庫」を発行。
明治二十二年帝国大学在籍のまま読売新聞に入社、代表作を次々と発表。「三人比丘尼色懺悔」「多情多恨」「金色夜叉」など。」
尾崎紅葉の金色夜叉の抜粋と銅像があります。
「一村十二戸、温泉は五箇所に涌きて、五軒の宿あり。ここに清琴楼と呼べるは、
南に方りて箒川の緩く廻れる磧に臨み、俯しては、水石のりんりんたるを弄び、
仰げば西に、富士、喜十六の翠巒と対して、清風座に満ち、袖の沢を落来る流は、
二十丈の絶壁に懸りて、素繍を垂れたる如き吉井滝あり。
尾崎紅葉 金色夜叉より」
吉井滝については、別途記述済。かつていたワンちゃん。