Discover 栃木 温泉文化遺産(温泉文化史)
 
 奥州街道(芦野〜横岡〜寄居)

  ○睦家
    弁慶下駄掛石

  ○芦野
    足尾大神 芦野宿 遊行柳

  ○横岡
    上の宮湯泉神社 べこ石の碑/几号水準点 諭農の碑 板屋の一里塚

  ○寄居
    泉田の一里塚 足尾山 初花清水 瓢石 境の明神

    


弁慶下駄掛石 那須町大字睦家

 「東山道那須温泉」へ向かう梁瀬入口交差点に「弁慶下駄掛石」があるので寄ってみました。

  

 那須町伊王野のりんどうラインと国道294号の梁瀬入口交差点に、「弁慶下駄掛石」があります。
 治承4(1180)年、義経一行が鎌倉に向かう途中、弁慶が道の傍らの大きな石を指さし、
 「那須山で修業した時、下駄に挟まった石を取ろうと蹴ったらここまで飛んできた」と話し、
 一同大笑いしたという伝説に基づいています。
 平成23(22011)年、伊王野梁睦自治会により重さ10トン自然石で復元されています。

     

     

(掲示)
「伝説
 鎌倉へ向かう義経一行がこの地に差し差しかかったところ、弁慶が道の傍にある大きな石を指さして言いました。「おい、みんな。この石はおれが那須山で修行三昧していたとき、下駄の歯に掛かって、はさまった石よ。取ろうとして軽くひとふりしたところ、ここまで飛んできたのよ。」と言うと義経をはじめ、一同大笑いしました。」

  

<義経街道>

  

<弁慶の鉄下駄>

 弁慶の鉄の錫杖と鉄下駄です。

    


芦野宿 那須町芦野

 「奥州道中 芦野宿」碑が建っています。
   
    


遊行柳 那須町芦野

 元禄2(1689)年4月20日(新暦6月7日)早朝、那須湯本を出立した芭蕉と曾良は芦野宿に到着。
 芦野を治めていたのは芦野氏19代当主の資俊。芭蕉の門人で俳号は桃酔。
 芭蕉たちは資俊にかねてより勧められていた遊行柳に立ち寄りました。
 芭蕉「田一枚植て立去る柳かな」の句碑があります。寛政11(1799)年4月に江戸の俳人である井上春蟻が建立したものです。
 平成27(2015)年3月、「おくのほそ道の風景地」のひとつとして国指定名勝に追加されました。

    

     


上の宮湯泉神社 那須町横岡

 上の宮の参道に遊行柳があります。

  


べこ石の碑/几号水準点 那須町横岡

 几号水準点が、べこ石側面にあります。

(説明板)
「べこ石の碑
この碑は嘉永十年(一八四八)十月に芦野宿の問屋をつとめた戸村右内忠怒が撰文建立したもので、全文十九段、約三千五百の文字を刻した碑文である。長文で孝行の大切さと善行をすすめ、堕胎の戒めと生命の尊重など実例や例えを用いながら儒教的精神を中心とした人の道を優しく教えている。
 この碑は、自然石に炎帝神農氏の姿か、昔時この地方でも牛を「べこ」と称し石の形がか臥牛に似ているための呼称と思われる。
 この碑文を通して幕末期の民情風俗や社会、経済及び道徳思想を知る歴史的文献として貴重である。
  那須町教育委員会」

     

     


諭農の碑 那須町横岡589

   


板屋の一里塚 那須町横岡585

 江戸から44里目の一里塚です。

(説明板)
「那須町指定史跡 板屋の一里塚
 奥州街道(陸羽街道)は「徳川実記」によると、慶長九年(一六〇四年)五月に開通したものと記されている。その年に徳川家康は諸国に命じて東海、東山、中山の諸道を修理させ、一里塚を築かせたという。当町には南から、夫婦石、板屋、泉田の三ヶ所がある。板屋の一里塚は、日本橋から四四里(一七六キロメートル)目のもので、近年、坂の傾斜を緩和する工事で削られ、その全容はうかがえないが道の東西二ヶ所に残存し、当時の面影を残している。
  那須町教育委員会」

   


泉田の一里塚 那須町寄居

 江戸から45里目の一里塚です。

(説明板)
「泉田の一里塚
 旧陸羽街道沿いの本町内に一里塚が三ヶ所あり(夫婦石、板屋、泉田)その最北端に当るのがこの一里塚である。
 一里塚は、始め徳川家康 が天下に命じて築かせたが完成したのは慶長九年(一六〇四年)徳川二代将軍秀忠の時で三六町を一里として道の両側に塚を築きその上に榎を植えさせ旅人に距離の目安とした。
  那須町教育委員会」

    


境の明神 那須町寄居

 確認していませんが、西側にある県境界標の下の石垣に「几号水準点」が刻まれているようです。

(説明板)
「那須町指定史跡 境の明神
 玉津島神社とよばれ、奥羽側の住吉神社と並立している。創立は古く、天喜元年(一〇五三年)四月一四日に、紀州和歌浦の玉津島神社の分霊勧請と伝える。起源は峠神として生まれ、奥州街道が開かれると交通の発達とともに発展したが、明治に入り新国道や鉄道の開通によって衰退したものとみられる。ことに明治三九年十二月の火災により類焼し、昔日の面影を失ってしまったが、旧東山道沿いの「追分の明神」とともに、道中安全の神として古い歴史をしのばせる貴重な史跡である。
  那須町教育委員会」

    

     

<境の明神 白河市>

(説明板)
「境の明神
 旧奥州街道に面して、陸奥(福島県側)と下野(栃木県側)の国境を挟んで境の明神が二社並立している。陸奥側の「境の明神」は、玉津島神社を祀り、下野側の「境の明神」は住吉神社を祀っている。境の明神の由緒は不詳であるが、文禄四年(一五九五)に当時白河を支配していた会津藩主蒲生氏が社殿を造営している。現存するのは弘化元年(一八四四)に建てられた小祠である。
 奥州街道は五街道の一つで、奥州・越後などの諸大名が参勤交代で通行し、旅人や商人などの往来も盛んであった。このため道中の安全を祈ったり、和算額を奉納したり、灯篭や碑の寄進なども盛んに行われている。
 境内には越後新発田藩溝口家や南部藩士などが寄進した灯篭が並び、松尾芭蕉の「風流のはじめや奥の田植え唄」などの句碑や歌碑も多く建立されている。神社北側の杉林は、別当寺であった和光山豊神寺の跡地で、神仏習合の名残をとどめている。
玉津島明神と住吉明神
 玉津島明神(女神・衣通姫)と住吉明神(男神・中筒男命)は、国境の神・和歌の神として知られ、女神は内(国を守る)、男神は外(外敵を防ぐ)という信仰に基づき祀られている。このため、陸奥・下野ともに自らの側を「玉津島を祀る」とし、反対側の明神を「住吉明神を祀る」としている。
  白河市教育委員会」

     

     

   


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