鬼怒川温泉には、会津西街道の痕跡が点在しています。
〇 その他
・高徳/中岩
・六題目の碑
・たてばの松
・東武ワールドスクウエア(西沢金山の大原精錬所跡)
・小原沢古戦場跡
・弾除けの松二世
・仲附
・勝善碑と馬頭観世音の碑群 別頁
・藤原宿
本陣・問屋
・阿弥陀沢
・十二神社 別頁
・「日蓮上人腰掛石」清隆寺 別頁
・太閤下ろしの滝 別頁
モウキ山の山腹の穴を通ってきた風が岩穴から吹き出してくる鬼怒の風穴。
旧藤原町役場から元湯星のや(廃業)にかけて、モウキ山が鬼怒川に覆い被さり
大へづりといって、会津西街道の難所でした。
霧がでていることが多く、なぜここだけ霧が?と思いながら通っていましたが
鬼怒の風穴の自然現象だったわけです。
(説明板)
「鬼怒川温泉観光名所 鬼怒の風穴
風穴とは、この茂木山の山腹に奥深く続いている穴で、この付近に5つほどの風穴が確認されています。
これらの穴の中から吹き出る空気が外気にふれて白い霧になって見られることがあります。
こうした現象は年間を通して見られますが、特に雨上がりなどに顕著です。
この茂木山の大部分が、大小の岩石によって組み立てられていることが推測されます。 藤原町」
公衆トイレは、旧鬼怒川温泉駅ホームの跡で、当時は車両が2両で、駅の雰囲気が残っています。
くろがね橋の下に公衆トイレが設置されており、こちらの公衆トイレは撤去されました。
鬼怒川右岸が中岩公園(日光市栗原411-29)、鬼怒川左岸が高徳中岩河川公園(日光市高徳397-2)。
中岩温泉には、中岩館と高徳旅館の2軒があり、
新高徳駅より5町(545メートル)、中岩橋のところとの記載があります。
一日の行楽 田山花袋 著 博文館 大正7
「中岩橋と籠岩
中岩の奇勝は、渓の清いのと、岩の面白いのと、日光火山群、高原火山群、
それからずつと会津の帝釈山脈を望むのにある。
大きな岩を中央に橋が二つにわかれてかかっている具合など、まことに絵も及ばずである。」
「きぬ川の流れにかけし縄つるべくみてむすばん旅のすさびに」
<大谷石のカエル>
中岩橋にいるカエルですが、小百でもみかけました。
小百のカエルは、喉元に交通安全と刻まれていたので、交通の要所に他にもいそう。
鬼怒川温泉には、カエルが多い。
閉館した鬼怒川グリーンパレス、仁王尊、万葉亭、鬼怒川温泉駅駐車場、あさや(出口の左右にいる)
<大正天皇お手植えの松> 日光市栗原411-29
大正天皇が静養の為、日光の田母沢別荘に滞在の折、
鬼怒川温泉の最も有名な景勝地であった中岩を訪れました(明治33(1900)年8月12日)。
その折に大正天皇みずからが植えたと伝えられるお手植えの松。
「中岩公園 対象天皇御手植の松 今市市」の案内表示から急な石段を降りると、
皇太子殿下行啓記念碑や、御手植の松、古碑、昭和天皇即位記念碑等があります。
御手植之松碑は、中岩公園ではなく、中岩橋の鬼怒川右岸にあります。
松と碑が離れた場所にあるのか謎。
<高徳中岩河川公園>
こちらは鬼怒川左岸にある高徳中岩河川公園。
鬼怒川右岸の中岩公園のほうは古い物が色々ありますが、
こちらは、錫杖持った像が気になります。
新大瀞橋からの道が旧道に接触してくるところにあけびの臨時駐車の看板があり
林の中に六題目の碑がひっそりと佇んでいます。
旧道をまっすぐ東武線に沿ってすすむと、途中車の通れないガードの下をくぐって
鬼怒大瀞の屋形舟乗り場に出ます。
小佐越駅の裏側、仁王尊に向かう旧会津西街道の東急ハーベスト手前右手にあります。
たてばの松は、道中を行く人々を運ぶかご屋が、法外な請求をしないよう一定間隔でたてられ、
それを目安にカゴ賃が決められたと言われています。現在のタクシーメーターの昔版ですね。
会津西街道沿いでも滅多に見られないたてばの松で樹齢450年、高さ25メートルあります。
街道を挟んだ向かい側に立場茶屋を営んでいた竹末家があり、松の呼称はこれに由来します。
松の所有者は竹末氏となっています。
ワールドスクウエアの山側に西沢金山大原精錬所の煙道が残っており、
地元では煙道の沢と今も呼んでいるそうです(未確認)。
会津西街道は、小原沢(おばらさわ)を巻いていたのが当時の道筋です。
〇鬼怒川戊辰公園 日光市藤原
鬼怒川戊辰街道を進み、小原沢を越えると、鬼怒川戊辰公園があります。
ここは小原沢古戦場跡です。戊辰の役殉難碑が建っています。
戊辰の役殉難碑は、星光二藤原町長(星のや旅館)が自費で建立したものです。
(碑文)
「殉難碑
当地の渓流を挟んだこの附近一帯は、慶応四年(一八六八年)六月二十六日の戊辰戦役における東西両軍激戦の遺跡である。この碑前方の丘陵に急々に築いた陣地に拠った東軍の幕府伝習大隊・草風隊及び会津藩隊は、陣前に肉迫して来た西軍の佐賀・宇都宮両藩隊を逆襲によって撃退し西軍の会津進出を阻止した。この日の戦死者は、東軍の隊長村上求馬ら三名、西軍の佐賀藩小隊長嬉野弥平次、宇都宮藩家老長男安形靭負太郎ら十八名にのぼった。裏面に誌した人々は、この戦前後の藤原町地内での戦死者を含んでいる。依って、ここに碑を建てて永えに其の雄魂を弔うものである。なお慶応四年は同年九月より明治と改元された。
昭和五十六年六月二十六日建之
齋藤茂吉 撰文
木村 始 謹書」
(説明板)
「会津西街道
この街道は、下野から会津若松へ、さらに北陸・東北へ通じる最も西側の街道である。原型は、縄文時代にさかのぼり、沿道遺跡出土の縄文・弥生土器が証明している。
寛永二〇年(一六四三)、会津藩主(二三万石)になった三代将軍家光の弟保科正之が、険路の迂回工事をし、宿駅を設置し、馬買金を助成して整備した。日光経由の江戸参勤路として、また、藩預かりの南山蔵入領(約五万石)の廻米を鬼怒川阿久津河岸(氏家町)へ輸送するためである。
この街道では、会津の農民運輸業者「仲付」の活躍が有名で、信州伊那街道の「中馬」と共に、日本交通史上特筆されている。 日光市」
(説明板)
「戊辰戦争
戊辰戦争は、慶応四年(一八六八)一月から翌明治二年五月までの政府軍と旧幕府軍側との戦争である。部分的には、鳥羽・伏見の戦い(京都)、上野の彰義隊の戦い(江戸)、日光山を巡る攻防(下野)、奥羽越列藩同盟と会津落城(東北)、五稜郭の戦い(北海道)などがよく知られている。
徳川家祖廟のある日光山は、重要な戦略拠点で、そこにいたる下野の戦いも多くの悲劇を生んだ。しかし、政府軍の土佐藩隊長板垣退助や会幕連合軍大鳥圭介らの努力で日光山の戦火は回避され、やがて戦争の舞台は、会津若松城下に通じるこの街道に移り、沿道の住民を巻き込んでいった。 日光市」
(説明板)
「戊辰戦争ー大原村の戦い
日光山の戦火回避後、慶応四年(一八六八)、閏四月から五月初めの二度にわたる今市宿攻防戦は、政府軍がこれを死守した。
敗退した会幕軍は、陣容を立て直すために一旦会津へ退き、再び南下して政府軍の進撃に備えた。
会幕軍は、下原(小佐越駅付近)・大原(藤原中学校付近)・藤原(新藤原駅付近)など街道筋へ主陣や前線基地を築き、装備を整えて、一日でも長く戦闘を持ちこたえ、若松城下をめざす政府軍の前進を阻もうとした。政府軍は、頑強な抵抗に苦しめられたが、八月、会幕軍の主戦場白河口へ結集する退却によって前進できた。
大原・藤原などの集落は、会幕軍の退却に伴って焼き払われた。
政府軍 約1200名、砲 4門、木砲 数門
会幕軍 約 500名、伝習第二大隊・別伝習隊・草風隊
「藤原町誌」通史編から 日光市」
(説明板)
「戊辰戦争ー小原沢の戦い
ここ小原沢も、激戦地であった。この辺りは、モウキ山の曽根が鬼怒川へ突き出て、「大べつり」と呼ばれる最大難所の一つであった。戦争当時は、荷物を積んだ駄馬がやっと一匹通れるぐらいの小道が、曽根をへつって通じていた。
進撃する政府軍が、難所を越えると、道は切り通し風の上り坂になり、大きく蛇行している。陣地を構えて政府軍を迎え撃つのに絶好の地形であった。会幕連合軍は、近隣の農民を使役して、左手小高い丘に溝型の防御施設を設け、モウキ山の麓に姿を見せた政府軍兵士を一斉射撃したのである。
近くの殉難碑に、両軍の戦死者名が刻まれている。 日光市」
「弾除けの松二世」は、新政府軍の佐賀藩陣地から発射されたアームストロング砲の榴弾から、
大松に身を隠して会津兵は難を逃れたとの言い伝えがあります。
平成8(1996)年7月、突風により倒木。現在は二代目の松です。
藤原宿に、本陣・問屋を兼ねて名主を務めた星家がありました。
現在は高齢者の通所介護事業所「藤原デイサービスセンターななほし」です。
「国民宿舎星光ホテル(1973年〜)→藤原デイサービスセンターななほし(2011年5月1日〜)」
<平貞能と妙雲禅尼(藤原)>
平貞能と妙雲禅尼が藤原に来た時、星家に滞在したという話が伝わっているようです。
星家には日蓮上人も1265年に1週間滞在しています。
日光会津観光圏元気再生プロジェクト(消滅)に、かつてこんな記載がありました。
「現在の藤原の集落は国道121号線沿いにありますが、
元の集落は高原新田から藤原に抜ける旧会津西街道沿いの本宿(もとじゅく)にあったと
言われており、近くには阿弥陀沢という沢名があります。
ここで妙雲禅尼が小さなお堂建てて阿弥陀仏を安置し朝夕経を上げて勤業したため、
阿弥陀沢の名がついたと言われています。やがて妙雲禅尼は釈迦ヶ岳を越えて塩原に入ります。」
鬼怒川水力電気の竹之澤発電所への昔の導水路の地図を見ると、○が阿弥陀澤
堰場川の最下流部で合流する支流が七久保沢で、この沢が阿弥陀沢のようです。