【賽の河原】
〇 賽の河原地蔵尊/天狗岩不動尊
【塩の湯】
〇 塩の湯道 延命地蔵尊
【須巻】
〇 川崎厄除大師
【中塩原】
〇 塩原八幡宮
〇 戦場(せんば)の戦い
離れ室城
塩原要害城跡 要害の滝
〇 戦場阿弥陀堂
【奥塩原】
〇 八郎館跡
〇 大師堂
〇 源泉七福尊
〇 地蔵堂/十王堂
〇 爆裂火口庚申塔 別頁
〇 円谷寺墓地 別頁
〇 如活禅師供養塔 別頁
〇 萩地蔵 別頁
賽の河原(小夜の河原)に、野立岩がありますが、賽の河原地蔵尊もそこにありました。
小夜の河原(賽の河原)のお地蔵さんは、天狗岩崩落防止工事による、解体移築で道路の上に祀られています。
<天狗岩不動尊>
賽の河原地蔵尊の横には「天狗岩不動尊」が祀られています。
塩の湯へ向かうおかね道に、「延命地蔵尊」が祀られています。
新しい標柱は、塩釜9班が平成12年に建立しています。
(標柱)
「延命地蔵尊
平成十三年十月吉日 塩釜九班一同」
参道から川崎厄除大師に向かいます。
「富士山園地」に到着すると、方向指示盤があります。
最後の階段を上り、ここも「富士山園地」です。
(説明板)
「塩原温泉川崎大師厄除不動尊
今から千年以上も前のことです。弘法大師空海は日本各地を巡り、人々の救済の旅に出られていた時のことです。その度の途中、弘法大師が山深い下野の国塩原の里を通りかかった時のことです。このあたり一帯には飢饉や天災が続き、塩原の里の人々は苦しい生活をしておりました。弘法大師はこの塩原の里に草庵をむすび、不動堂をお祀りし、里の人々に救いの手を差しのべました。それ以来塩原の里人はもちろんのこと、近郷近在の人々はこの不動堂を深く信仰してきました。
江戸時代の末期、戊辰戦争の舞台となった塩原は兵火によって村中が焼失し、この不動堂も類焼してしまいました。のちに塩原の人々はこの不動堂をおしみ、皆相計ってその再興を発願、その努力によりここにその淨願は達成されました。
昭和五十二年七月二十八日
大本山川崎大師平間寺
塩原温泉川崎大師厄除不動尊護持会
厄除大護摩供修業
四月二十八日 例祭 午前十一時
七月二十八日 大祭 午前十一時
十月二十八日 例祭 午前十一時」
不動尊は避雷針がついています。
参道ではない遊歩道を降りていくと、「須巻温泉周遊道〜」と刻まれている記念碑があります。
大正9年と刻まれていて、川崎厄除大師がない時代でも賑わっていたことが伺えます。
側面に、「改修費200円東京市橋本善吉殿 100円下塩原青年団 寄付」とあります。
妙運寺近くの不動坂に剣不動尊があります。剣が数多く奉納されています。
国道400号の古町の追沢にかかる「紅葉橋」に、粟島神社はあります。
粟嶋大明神の石碑があります。
<あわしま信仰>
婦人病、安産、子授け、裁縫の上達など、女性に関し霊験ある神として信仰されたのがあわしま信仰です。
天保年間(1830〜1843)に淡島願人と呼ばれる人々が淡島神の人形を祀った厨子を背負い、
淡島明神の神徳を説いて廻った事から信仰が全国に広がりました。
(ウィキペディア等を参照した)
栃木のあわしま信仰について、どこかで読んだ記憶があります。
<源三窟>
万治2年2月の大地震で、洞窟が崩れ落ち、弓矢、靱、鎖帷子、食器などその他諸々が埋もれます。
武器類だけは掘り出すことができます。
洞守は、古遺物が土化しているのは遺憾として、明治45年5月から10日をかけて掘ります。
今は洞の長さ40mほどですが、崩壊前は八町(873m)あったと、昔の塩原温泉案内本に記載があります。
源三窟の照明変更
洞内の照明がハロゲン球(25灯)からLED(40灯)に変更され、
17、18度だった洞内温度は10度前後下がったそうです(下野新聞)。
狭間城跡(塩原1157)の所有者は「笹沼敏孝」氏、同じ方が所有ですね。
「幕岩村正八幡宮略縁起」によると、康平元年(1058)、源頼義と嫡子の義家が前九年の役に、
奥州安部貞任征伐のため、この八幡宮に立ち寄り戦勝祈願をして社殿を再興したとされる。
治承4年(1180)に源頼政一族が、神前に鎧兜を奉納、文治3年(1187)には源有綱(源義経腹心の武将)が訪れ
八幡宮に参拝したと伝えられる。その後、源有綱は塩原八幡宮の側神として祀られ、
地域の人々に尊敬され、塩原領主や藩主により代々守られ、村内安全、五穀豊穣の神様として崇敬される。」
(那須塩原市HP)
(説明板)
「塩原八幡宮(本殿)
創建は大同二年(八〇七)とされていますが、「幕岩村正八幡宮略縁起」によると、康平元年(一〇五八)、源頼義と嫡子の義家が前九年の役に奥州安部貞任征伐のため、この八幡宮に立ちより戦勝祈願をして社殿を再興しました。
その後治承四年(一一八〇)に源頼政一族が、神前に鎧兜を奉納、文治三年(一一八七)には源有綱(源義経腹心の武将)が訪れ八幡宮に参拝しました。その後、源有綱は塩原八幡宮の側神として祀られ、地域の人々に尊敬され、塩原領主や藩主により代々守られ、塩原の村社として今の世に伝えられています。
寛政十年(一七九八)、時の宇都宮藩主戸田越前守の許しを得て再建されました。
けやき造、間口一間、奥行一間、流れ造りの厚板葺き屋根。
【祭神】誉田別命、素戔嗚命、大山祇命、源有綱
平成五年三月三十一日 塩原町文化財指定 那須塩原市教育委員会」
<逆杉>
樹齢800年と伝承されてきたところ、最新の調査で樹齢1500年と推定されました。
(説明板)
「逆杉の由来
約一五〇〇年以前より勇水等の恵まれた環境の中で今日なお樹勢盛んな杜の巨木杉。当境内に多くの根株のみを留めている当初よりの杉の中で逆杉二本は御神前の東西に並ぶ、連理の御神木として古くより夫婦杉と称せられ相生の杉の御神徳高いとして敬われている。梢に近く高い幹に垂れた太い枝が多いところから逆杉とよばれるようになる。伝説によれば平安時代の康平年間、八幡太郎義家公が東征の途中、当所に於て逆杉に神気を霊感され、源家縁りの当八幡宮に戦勝を祈願されたといわれる。
雄杉(西側)の幹周十一・五メートル、雌杉八メートル樹高四〇メートル樹勢旺盛な杉の巨木代表として昭和十二年四月十七日、国(文部省)より天然記念物に指定される。
宗教法人 塩原八幡宮」
<大栃>/<気の大杉>
大栃が枯れて切り株が残ります。
逆杉に次いで古い「気」の大杉があります。
<一夜竹>
源義家にかかる伝承があります。
八幡太郎義家が、奥州征伐の際神事を行おうとします。
周辺に竹が見つかりませんでしたが、翌朝境内には竹林が出来ており、無事神事を行うことが出来たといいます。
(説明板)
「一夜竹の由来
平安時代の原平年間、八幡太郎義家公が奥州征伐の途中、当塩原八幡宮に戦勝を祈願された折弓に用いる矢が不足で矢の材料である篠竹を当地で探したが、求める竹を見出す事ができなかった。ところが一夜明けて当境内に篠竹が簇生しているのを発見しこれにより東征に必要な矢として、使用することができた。義家公は奥州より凱旋の帰路再び当神社に詣でて戦勝の報告祭をなされたことからこの篠竹は一夜竹と呼ばれるようになったと伝えられている。
塩原八幡宮」
二宮尊徳は、奥塩原新湯を訪れています。
大正10年建立の「二宮尊徳翁の頌徳碑」です。
逆杉を育てた長寿の若水湧水。
鏡池の真ん中に、若水神社。
鳥居をくぐると、若水お滝があり、その横は、石樋を伝って水が流れてきています。
滝のすぐ上に逆杉不動尊。
<有綱神社>
源有綱にかかる伝承があります。
源有綱は、建久元(1190)年に、小田ケ市(こたがいち)(御他界地)にて生涯を閉じたと
塩原では伝えられています。
平成3(1991)年、小田ケ市の大塚家の墓地横に、源有綱の供養塔が建立されています。
(標柱)
「源有綱公御他界地」
「源三窟洞守 笹沼幸雄建之 平成三年五月吉日」
「有綱塚」
「たちばな家」(閉館)で日帰り入浴。露天風呂はかけ流しです。
宿の裏手「引久保百観音堂」に寄りたいので、車をそのまま停めてよいかお聞きすると
女将さん「中見るなら鍵貸すよ、駐車場のところからそのまま行けるから」とのことで、
予想外の展開、観音堂の木札がついた錠前の鍵を渡され、感激しました。
南京錠を鍵であけて、拝観しました。ありがとうございました。
拝観料込み入浴500円は格安です。
<引久保百観音堂>
「文明14年(1482)、塩原城主橘伊勢守により戦場の戦いで討死した家臣たちの供養のため
1間4面の堂が建立された。寛政5年(1793)には、引久保観音堂を村人が再興。
堂内の須弥壇は、3つの間に仕切られ、それぞれ坂東三十三観音・西国三十三観音・秩父三十四観音として
計100躯が祀られ、一堂に安置したこの堂を、引久保百観音と呼び、今日に至っている。
阿弥陀・薬師・釈迦如来の三尊は、各間の本尊として間の中央に安置されている。」(那須塩原市HP)
文明7(1475)年、畑下の離れ室城を根城とする君島信濃守と、
中塩原の要害城を根城とする橘伊勢守・塩原氏との間で「戦場(せんば)の戦い」がありました。
破れた君島信濃守は茗荷沢に移り、子孫は明賀屋本館や彩つむぎを営まれています。
橘伊勢守は戦死者の供養のため「引久保観音堂」を建立します。
観音様がずらりと並んで壮観です。
戦場(せんば)を見下ろす「松の井荘」では、自家源泉を「松の木平
戦場(せんば)源泉」と命名しています。
畑下の離れ室城跡には、石垣が残っています。
<塩原要害城跡> 那須塩原市上塩原1002
治承2(1178)年、領主の塩原八郎家忠がこの地に塩原(要害)城を築きます。
家忠がもてなした武将の多いこと。
現地の説明板は更新されているので、更新後の説明板を引用します。
(説明板)
「史跡 塩原(要害)城跡
那須塩原市指定文化財
平成五年三月三一日指定
平安時代より塩原の地は、宇都宮氏系塩谷氏の一族である塩原氏の所領でした。保元元年(一一五六)頃に「八郎ヶ原」に舘を構えていた塩原八郎家忠は、治承二年(一一七八)、箒川と善知鳥沢との合流点の高台に塩原(要害)城を築いて移りました。
鎌倉時代に入り、長沼(小山)宗政の領地となり、塩原氏はその支配下で領地を守ってきましたが、その後、宇都宮系の君島信濃守、小山系ともいわれる橘伊勢守の支配を受け、文亀二年(一五〇二)会津芦名氏の傘下であった小山出羽守が城主となり大改修を行いました。その後、戦国時代に宇都宮家臣の塩原越前守が城主となりましたが、慶長二年(一五九七)、宇都宮氏の改易と共に、約四二〇年続いた塩原城も廃城となりました。
城郭は東西約三〇〇メートル、南北約二五〇メートルに及ぶ塩原最大のもので、約四〇メートルの断崖が自然要害になっています。その中心には約三〇メートル四方の本丸を置き、虎口や馬出しを設置、外敵に備え空堀を二重に廻し、大手門にあたる本丸には、南北約一〇〇メートル、高さ約五メートルの土塁を築いた強固な城構えとなっています。
那須塩原市教育委員会」
箒川にかかる「宮島の吊り橋」(老朽化により通行止、2024年修繕)を渡り、
善知鳥(うとう)沢川にかかる「要害の吊り橋」を渡り「要害公園」にたどりつきます。
目の前は、地層むき出しで、要害から落ちてくる「要害の滝」があります。
ここはあまり知られていない蛍の名所でもあります。
なお箒川下流に架かる「要害公園橋」を渡って箒川左岸を進んでも行けます。
塩原八郎家忠が要害城を築き移る前の居館が、八郎ヶ原の八郎館です。
八郎ケ原放牧場内に、八郎館跡地がありますが、許可を得ないと入れないので居館跡は未確認です。
八郎ケ原放牧場は、鹿の食害により休牧となっています。
箒川左岸に「戦場阿弥陀堂」があります。
石碑が色々とあります。摩滅している地蔵もあります。墓石が多いです。
「秩父西國坂東順礼供養塔」があります。
「六地蔵供養塔」があります。下部に文字が刻まれていますが、判読できませんでした。
「上塩原の箒根神社(本殿)
創立は文明5年(1473)、社掌君島宇京が当村の鎮守神として奉斎したことに始まる。君島信濃守はこの地を治め、嶽山箒根神社の霊神(豊城入彦命)の分神をここに遷宮し、地域の農山振興に尽力したといわれる。現在の建物は、享保19年(1734)上塩原村の惣旦那衆の寄進により再建されたものである。
江戸時代に入り、上塩原村は会津脇街道の往来と共に発展し、物資輸送のため小滝宿が設立され、上塩原箒根神社も尾頭峠越えの安全の祈願所として崇(あが)められた。」(那須塩原市HP)
むじなの湯の手前に大師堂があります。
湯荘白樺の露天風呂が七福の湯です。
お堂の前に置かれた石板によると、
「十王堂 和尚塚地蔵 子育地蔵
万治二年(一六五九)の地震のため元湯温泉より移遷」
塩原温泉郷土史研究会によると、
「元湯から地蔵堂と十王堂を新湯に移動、地蔵様と閻魔王神像等を一つに合祀、
新湯地蔵堂として噴火口近くに建立。」と記しています。
地蔵堂として、和尚塚地蔵、子育地蔵が祀られ
十王堂として、閻魔王像等が祀られていることとなります。
日蓮上人像が上段真ん中にあります。
日蓮上人は、文永2(1265)年、会津に向かう途上、宇都宮侯のすすめで、
中風の療養のため那須温泉と塩原湯本で入湯されました。
那須から塩原へ、そして藤原宿に至り、村の長、星次郎助宅に逗留しました。

<元湯の地蔵堂/十王堂>
「塩渓紀勝」(奥蘭田)に記載されている元湯古図を見ると、
温泉大権現の脇に地蔵堂の文字があります。
十王堂は、湯地場の川向かいの権現山/湯殿山の麓、赤川の上滝の下に十王堂の文字があります。
元湯に湯殿山があるのが興味深いところです。
元湯から日塩もみじラインへ向かう道にはいって260mほどで、
右手に「上滝観瀑台」への階段があります。
階段上がってすぐ「上滝観瀑台」があります。
<赤川渓谷線歩道>
赤川渓谷線歩道を行くと、権現山/湯殿山に至ります。