○ 貝石(道の駅)
○ 貝石(和泉屋)
○ 貝石(不動の足湯)
○ 貝石(福渡温泉神社)
○ 貝石沢
○ 貝石の碑(妙雲寺)
○ 木の葉化石園
○ 大黒岩化石層群
○ (参考)隕石
※貝石が展示されていたスペースは野菜売り場となって展示は消滅しました、残念です。
かつて、道の駅に多くの貝石が展示されていました。
せっかく展示してあるのに、見ている人を見たことがありません。
じっくり見ていると、「何見てるんだろ〜?」で、若干人が寄ってきます。
この貝石、見応えあるなぁとつぶやくと、さらに人が寄ってきます。
福渡の和泉屋に貝石が置いてあります。
フロントから国道の下を通るトンネル(国に道路使用料を支払っているのですよ)に向かうすぐのところです。
塩の湯の貝石沢ではなく、福渡でとれたそうです(鹿股川に向かうところにも、まだあるそうで)。
台風や大雨の時に、貝石沢から洪水とともに流れてきた残物かと思うのですけれど。
貝石って、転がっていたから拾って、何気なく置いているパターンが多いかと。
女将さんは、嫁がれる前がご近所さんだったので、その話題で盛り上がり、貝石のことはあまり聞けずじまい。
2代目不動の足湯の角3カ所が貝石です。
画像は3カ所のそれぞれの角の貝石。
貝石を知らなければ、だ〜れも気づかない。気づかれなくともこれを造った有志の方々に感謝。
○貝石 福渡温泉神社 那須塩原市塩原
桃林舎枕石(和泉屋旅館八代目主人)の歌碑があります。
文化6(1809)年に桃林舎枕石の門弟達が師の作品を後世に残すため建てたものです。
塩原文学研究会によると、桃林舎枕石の歌碑の台座が貝石です。
台座は地中に埋もれていて、よくわかりません。
「貝石翁と言われるほど貝石を愛した沈石らしく、碑の台座は貝石でできています。」
(「ようこそ文学散歩 文豪の愛した郷「塩原」 塩原文学研究会 2000年3月」)
(碑文)
「甘味をば淡きにかえて武蔵野の月より嬉し塩原の秋」
(説明板)
「塩原温泉文学散歩 桃林舎枕石 歌碑
甘味をば淡きにかえて武蔵野の月より嬉し塩原の秋 枕石
桃林舎枕石は、松尾芭蕉門下の流れを汲む江戸後期の塩原の俳人で、福渡の和泉屋旅館八代目主人でもあった。
本名は太平、号を桃林舎とも眠松下とも称した。
この句碑は、文化六年(一八〇九)に枕石の門弟達が師の作品を後世に残すため、建てたものである。」
貝石とは直接それますが、貝石翁の碑をめぐります。
○桃林舎枕石の歌碑 門前
「榮太楼」にも桃林舎枕石の歌碑があります。
(碑文)
「甘味をば淡きにかへて武蔵野の月より嬉し塩原の秋 枕石
平成十年夏」
妙雲寺の常楽の滝に桃林舎枕石の句碑があります。
(碑文)
「貝石と化して幾世ぞ霧の海 桃林舎枕石」
妙雲寺に寛政5(1793)年3月、芭蕉翁100年忌の供養に、
芭蕉の句碑「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり」を枕石が建立しています。
左側の句碑にこの句が彫ってありましたが、今は摩滅して見えません。
右側の碑に解説があります。
(碑文)
「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり」
与助は大変な酒飲みで、死後も酒臭が離れず山門の外に葬られたのを不憫に思った桃林舎枕石が
箱膳の台石に五升徳利が乗り、その上に大盃の石塔を建て、狂歌を刻んだものです。
「世界奇墓石の一として有名です」との妙雲寺花園会の説明板は言いすぎですかね、英文も加えないとね。
(墓碑狂歌)
「世をはやく逃がれたる人ぞ徳利なれ 今は浄土で後生らく飲 沈石」
(説明板)
「塩原文学散歩 酒風漢与助の墓
世をはやく逃がれたる人ぞ徳利なれ 今は浄土で後生らく飲 沈石
文化年間に日雇を生活とする与助は米菜の一切を口にせず食貨を酒に代えるの上戸者でしたので死んでも骸から酒臭がはなれません。葷酒山門に入るを許さずの妙雲禅寺ですので、この山門外に葬られたのを不憫として桃林舎沈石が箱膳型の台石に五升徳利と大盃を石塔とした墓を建て狂歌の偈頌を刻んで成仏を祈ったと伝える世界奇墓石の一として有名です。
妙雲寺花園会」
鹿股川に合流する貝石沢は、貝の化石が群集しているところです。
「探勝行脚」(須藤鐘一著 三徳社 大正10年)
こんな記載があります。
「塩釜で木の葉や貝殻などの化石を売っている小さな店があり、化石はどこから出るのか聞くと、
此の向の山奥から出るのでございますが、近頃は大分掘り荒らしてしまいましたので、あまり出なくなりました。」
※高尾太夫のお話
高尾太夫が塩釜に住んでいた幼少の頃、家計は苦しく、貝石沢で貝の化石を集めては、
塩釜の蒸湯の入浴者や、塩の湯の明賀屋の宿泊者に売りに行っていました。
江戸浜町の遊郭「三浦屋」の四郎左衛門夫妻と番頭の3名が明賀屋に湯治にきており、
番頭が石を売りにきている娘が、天津天女の再来かと疑われるほどであることに心づき、夫婦に話をします。
夫婦は番頭から話を聞き、石を売る「しの」を部屋に招いて石を買います。
その後も石を買い続け、学問と遊芸を身につければ、小野小町や楊貴妃に匹敵いやそれ以上になるだろうと確信します。
高尾の養父の長久は病気がちで、家は貧しく、明賀屋の主人と妙雲寺住職の計らいで親との交渉はまとまり、
やがて江戸に連れ帰ります。
(明治・大正時代の複数の塩原案内本を考察しての私の推察であり、諸説あるところです。諸説記述済)
明治・大正時代には、塩釜に貝石沢で採れた化石を売る売店がありました。
上から見た合流点 貝石沢(右岸)と鹿股川(左岸)が合流
高村光太郎・智恵子は、昭和8(1933)年9月、柏屋旅館に泊まり、
写真屋を伴って、鹿股川と貝石沢の合流点の下流で写真をとっています。
1,2枚目 柏屋旅館ロビーにある写真 3枚目 塩原もの語り館の展示
1枚目 高村光太郎・智恵子が写真をとったのはこの辺り(撮った写真の背景で判断)
2枚目 表面が平らな大きな岩があり、そこで下流を背に撮ったのでは。
この写真は3月。高村夫妻の写真は9月なので、水量は3月より多いかな。
3枚目 ここから上流の貝石沢。水が冷たいので貝石さがしは行わず。
写真屋を伴って写真を撮ったので、当時は写真屋がいて撮影ポイントだったと思われ、
簡単に渓流へ下りられる道がないか探します。
すると、塩の湯の先、遊歩道入口の横にある消防団の小屋の左側から渓流へ下りられます。
渓流へ下りると、鹿股川と貝石沢の合流点です。
1枚目 ここから入ります 2枚目 なだらかな道です、昔からあったのでしょう 3枚目 美しい鹿股川が右手に見えてきます
高村光太郎・智恵子夫妻が泊まった柏屋旅館。昔ながらの雰囲気を今に伝えています。
大正時代に建てられた「桐の湯」です。休息所が備えられた露天風呂。光太郎夫妻も、入浴したことでしょう。
掘削自噴「苅子の湯」は、かけ流しの明賀屋本館や、ここ柏屋旅館では本来の姿、極上の湯です。
質問攻勢の私に、忙しいのに若旦那の対応はすこぶる良かったです、ありがとうございました。
(参考)高村光太郎・智恵子の墓は染井霊園にあります。→こちらで記載
妙雲寺の貝石は、化石がそのまま碑になっています。
妙雲寺の貝石に注目する人はほとんどいないと思います。
写真を撮っていたら
「この人何見てるんだろう?」と人が寄ってきて
「え?、そうなのねぇ!」の声にさらに人が集まり、貝石周辺は人だかりとなりました。
(説明板)
「貝石 奥塩ノ湯産 約二千万年前 当町小太郎ヶ淵 坂内仁三郎採集」
<奥塩の湯>
奥塩の湯とは、鹿股川へ合流する貝の密集した化石が出土する貝石沢で採集した貝石です。
戦前の塩原案内書によると、塩釜の土産物屋では、貝石沢で採れた化石を売っていました。
小太郎ヶ淵の小太郎茶屋でも、貝石沢で採集した貝石を売っていたのではないですかね。
妙雲寺にある貝石は、台座があって碑になっています。
坂内仁三郎採集とあり、那須塩原市商工会の会員(小太郎茶屋)にお名前がありました。
現在の当主の祖父で、貝石沢で貝石を採集し、その内のいくつかを妙雲寺に寄進しています。
小太郎ヶ淵の小太郎茶屋 多くの石が置かれています、貝石沢で採集した貝石もあります。
入園したことがないので、機会あれば追記します。
下戸倉沢が箒川へ合流する少し上流に、大黒岩化石層群(那須塩原市「天然記念物」)があります。
箒川に突き出す巨大な化石床の塊が「大黒岩」です。
大黒岩の両脇から、川辺へ向かう踏み跡があります。
左の踏み跡は、どうにか川辺へ降りられます。
右の踏み跡は、「え!?」という急斜面で危険を感じます。
ロープが備えられていた踏み跡を、ロープを伝って川辺におりました。
こんな大きな岩の塊が、化石床とは迫力あります。
河原にも貝の化石が転がっています。持って帰っても持て余すし、天然記念物なんで、見ただけです。
(行き方)
箒川にかかる横断道路の堰場橋から和田山河川公園の横を抜け、和田山隧道をくぐります。
箒川に合流する下戸倉沢の下戸倉橋を渡ると、下戸倉林道入口前に駐車スペースがあります。
「塩原ダム園地0.9KM」の案内板があります。「もみじ谷大吊橋」を渡ってから0.9KMとも言えます。
ちょっと行くとガードレールの切れ目に「大黒岩」の表示板が見えます。
そこから降りていくと大黒岩化石層群があります。
上塩原の民家に隕石の看板が出ています。目立ちます。
(看板)
「隕石(らしい岩石)を見つけました。
興味のある方は、お気楽に御立ち寄り、御鑑賞下さい。(以下略)」