横林
○ 横林一里塚
○ 念仏石碑かんの脇
○ 横林温泉神社
○ 那須疏水蛇尾川サイフォン出口
木綿新田〜百村
○ 木綿畑新田の念佛供養塔
○ 百村橋
○ 笹野曽里の一里塚
○ 巻川湯泉神社 鳥居の前を通る会津中街道
○ 百村の道標
○ 光徳寺門前の杉並木
○ 東福寺
○ 新木ノ俣用水
○ 百村庚申塔と道標
○ 穴沢子安地蔵尊
○ 木の俣地蔵 別頁
(説明板)
「会津中街道一里塚
会津中街道は、1695年(元禄8年)に自然災害で通れなくなった会津西街道にかわる道としてつくられました。全長128kmで、福島県の会津若松から県境の大峠・三斗小屋・板室、そしてこの地の横林を経て、矢板・氏家の阿久津河岸に至っています。会津藩の廻米(江戸などに運ばれる米)輸送等に使われた道で、会津街道、会津東街道、会津北街道などとも呼ばれ、横林宿には物資の中継ぎなどを行う問屋が置かれていました。
一里塚は、江戸時代に一里(約4km)ごとに街道の西側に築かれた塚で、その上にエノキやマツなどが植えられました。旅人の目安であり、休息の場でもあったようです。横林の一里塚は地域の農村景観を形づくる貴重な文化遺産であり、江戸時代の廻米輸送の歴史を物語っています。
会津西街道:会津藩の廻米輸送は、会津中街道がつくられる前は会津西街道やその他の道を利用していました。ところが会津西街道は、1683年(天和3年)の日光大地震によって葛老山が崩れ、川をせき止めてできた五十里湖によって通行できなくなりました。
五十里湖:五十里湖は、江戸日本橋から50里の距離にあることから呼ばれたといわれ、1723年(享保8年)に大雨で決壊します。五十里ダム建設後にでけたダム湖も五十里湖と呼ばれています。」
横林宿に「かんの脇」と呼ばれる石仏や塔が12体、建っている場所があります。
説明板もあり、蟇沼用水にちょっとした渡り橋もあり、場所的にはわかりやすいです。
(説明板)
「念仏石碑
江戸時代につくられた蟇沼用水がかたわらを流れ、ひっそりと12体の石碑・石仏がたたずんでいます。
1738年(元文3年)建立の念仏塔をはじめ、馬頭観音4体と軍馬観音1体があります。昔の人々が、生活を支えた農耕馬に家奥同様の愛情を注いでいたことがうかがえます。また、1742年(寛保2年)建立の地蔵尊2体と1796年(寛政8年)建立の庚申供養塔があり、かつての信仰の深さを物語っています。1871年(明治4年)建立の十九夜塔(月待塔)も婦人達の手で年に数回供養しています。他に新しいものでは如意輪観音などもあります。」
蛇尾川の洪水に悩まされていた東泉喜左衛門と村人が那須温泉神社から勧請して
明和5(1619)年に建てられました。
鳥居は鉄柱でがっちりしています。
蛇尾川サイフォン出口は、那須疏水が蛇尾川を横断した所にあり、
サイフォンの原理により出口から湧き出しています。
旧サイフォン出口と旧サイフォン復元
熊川の手前、笹野曽里の一里塚へ向かう追分にある、
木綿畑新田の道標「左ハやまみち 右ハもむら」を兼ねた念仏供養塔です。
木綿畑新田は、木綿畑本田より歴史的経緯から古い集落で、
かつては巻川村といいました。それ以前は、巻川湯泉神社の近辺に集落がありました。
巻川は現在の熊川です。
供養塔の先の別荘地の中の山道を歩くと熊川に至ります。
熊川にいたり、川沿いを歩くと「會津中街道」と記された大石がありました。
古碑ではなく新しい碑です。
熊川にかかる百村橋を渡ります。笹野曽里の一里塚へ向かいます。
木綿畑新田の念佛供養塔(道標)から熊川を越えてくると、笹野曽里の一里塚に至ります。
笹野曽里の一里塚は那須塩原市指定の記念物で、市の説明では、
「笹野曽里の一里塚は、両側が現存しています。西側の塚は畑の中にあって、
ほぼ原形に近い姿で現存し、会津中街道の一里塚で一番素晴らしいものです。」
トウモロコシに埋め尽くされる前に見ることができ、街道一番の一里塚と自負するだけのことはあります。
【西の一里塚】那須塩原市百村3,661(個人所有)
【東の一里塚】那須塩原市百村3-9(個人所有)
周辺の状況が少々変わりました。最後の写真の右手が一里塚がある場所。
左手に太陽光発電のパネル畑が現れました。周辺の雰囲気が少々変わりました。
一里塚から巻川湯泉神社へ寄ります。
巻川湯泉神社は笹野曽里にある川の神を祀る神社で一里塚の北西にあります。
鳥居の前の道が会津中街道で、太い幹の木々が道沿いに続いています。
途中で道の形がわからなくなっています。
百村と木綿畑の人々は、洪水で現在の所に居上っていますが、
古くは湯泉神社のある巻川(現熊川)沿いに住みこの神社の氏子でした。
木綿畑新田と木綿畑本田ですが、新田が古くの集落(巻川村)だったのが洪水で
西側の高台の本田に居上がり、その後、本田から新田に分家や移り住む人が出て
木綿畑新田の集落が再形成されました。
巻川湯泉神社鳥居前からの会津中街道は百村の道標に至るまで途切れ途切れです。
安永5(1776)年の道標は会津から来た時の案内で、「左 木綿田 大田原」とあり、
舗装道の右の巻川湯泉神社方面からの道は山道ではないのでこれが会津中街道か?
「右 山道 三良平事(筆?)」とあり、右に山道があったのかも。
よくわかりません。
光徳寺門前の杉並木を見て、百村庚申塔と道標をたどります。
杉並木が市指定記念物となっています。
境内で、護安沢と新木ノ俣用水が合流し、杉並木に平行して流れていきます。
(説明板)
「光徳寺門前の杉並木
この杉並木は、光徳寺参道(巾五・三m)入口より約一〇〇mに渡る杉並木で、一部には落雷等によって損傷している木もあるが、このように老大木が今なお並木をなして現存しているのは、唯一のもので貴重な存在となっている。
木数 四一本
周囲 最大四・三四m(目通り)
高さ 約三五m
樹齢 約三〇〇年
光徳寺は、護安和尚によって開基された曹洞宗の寺で、永正九年(一五一二年)五月、能山宗芸和尚によって開山されている。寺の前方に護安沢と称する沢があるのは、すなわち開基の名を取ったものである。 那須塩原市教育委員会」
百村本田には護安沢が流れてきますが、この水量だけでは不十分であり、
この地は江戸時代に開削された旧木ノ俣用水より高台で水利を得られないため、
明治26(1833)年に新木ノ俣用水が開削されました。
旧木ノ俣用水より高台のところへ水を引くため、取水口は木ノ俣川の山奥深くにあります。
取水口目指して行ってみました。
木俣橋手前、閉館したニューこめやの脇から木の俣林道に入ります。
百村庚申塔と道標「左ハ塩沢ゆみち」からでも、林道に出るのでこちらからも行けます。
林道に入って2.2km先、林道木の俣巻川線の分岐手前、左手の広場の奥に、
事故のあったトンネル出口に、木ノ俣隧道殉難者供養塔があります。
隣りは横川知事夫人による観音像。
フェンスで囲まれているところが、トンネル出口です。
<取水口>
供養塔から先は、舗装されていないダート道。新木ノ俣用水が見えます。
木の俣発電所に取水口がありますが、発電所管理道から先は通行禁止の掲示に引き返しました。
木の俣地蔵の所有者の東福寺です。
大きな梵鐘があります。
○念仏供養塔
左に「百村庚申塔」、右に「道標」(元禄16(1703)年)。「左ハ塩沢ゆみち」とあります。
会津中街道から逸れて、穴沢へ。