「塩原軌道「塩原口」駅舎は塩原温泉の表玄関として、塩原ガマ石園地にあった。当時、駅舎周辺には土産物屋や人力車の乗り継ぎ所があり、運転手の宿舎もあって大変賑わったという。
塩原軌道は、蒸気機関車により明治45年(1912)7月11日西那須野〜関谷間が開通。大正4年(1915)10月14日、新塩原駅(現在の入勝橋付近)まで延長された。
大正10年(1921)西那須野〜新塩原間が電化され、「塩原軌道株式会社」から「塩原電車株式会社」と改称。翌大正11年4月には塩原口まで延長され、同9日には開通式が挙行され、祝いの花電車が運行された。その後、終点・福渡温泉まで延長される計画だったが、実現しなかった。
電化後は運行本数を増やし、多い時には一日八往復を数えたが、昭和2年(1927)の金融恐慌、続く世界恐慌等による全国的な大不況のあおりを受け、利用者が減少した。さらに、大正4、5年頃から貸し切り自動車の営業が始まり、大正15年(1926)からは、営業を開始した乗合自動車の普及も重なり、経営が厳しくなり、昭和7年(1932)1月に運転を休止し、同10年(1935)12月に軌道廃止並びに会社解散となり、23年の幕を閉じた。」(那須塩原市HPより引用)
○塩原軌道「塩原口」駅舎跡 蟇石(がまいし)園地
蟇石(がまいし)園地が、塩原軌道「塩原口」駅舎跡です。
那須塩原市教育委員会の案内板があります。
(説明板)
「史跡 塩原軌道「塩原口」駅舎跡
那須塩原市指定文化財 平成九年三月三十一日指定
この塩原口駅舎跡は塩原温泉の表玄関として、ここ塩原ガマ園地にありました。当時、駅舎周辺にはお土産屋や人力車の乗り継ぎ所があり、運転手の宿舎もあって大変な賑わいでした。
塩原軌道は、気動車により明治四十五年(一九一二)七月十一日西那須野〜関谷間が開通し。大正四年(一九一五)十月十四日、新塩原駅(現在の入勝橋付近)まで延長されました。
大正十年(一九二一)西那須野〜新塩原間が電化され、「塩原軌道株式会社」から「塩原電車株式会社」と改称。翌大正十一年四月には塩原口(現在地)まで延長され、開通を祝う花電車が運行されました。その後、終点・福渡温泉まで延長される計画でしたが、実現しませんでした。
電化後は運行本数を増やし、多い時には一日八往復を数えましたが、昭和二年(一九二七)の金融恐慌、続く世界恐慌等による全国的な大不況のあおりを受け、利用者が減少し、さらに、大正十五年(一九二六)から営業を開始した乗合自動車の普及も重なり、経営が厳しくなりました。昭和七年(一九三二)一月に運転を休止し、同十年(一九三五)十二月に軌道廃止並びに会社解散となり、二十三年の幕を閉じました。
那須塩原市教育委員会」
塩原の入り口で、塩原温泉への来訪者を出迎えた、がま石。
蟇石園地の名前の由来となっています。
蟇石園地の手前、旧道沿の林の中にがま石が鎮座しています。
がま石は、彩花の湯の敷地内で、フェンスの中です。
フェンスの外からでも、見た目ガマガエルの石で、がま石だなとすぐわかります。
○妙雲寺にある塩原電車の大正13年10月の寄付の板碑
塀にはめ込まれているので、塀を寄進したということでしょうね、珍しい。
○塩原軌道/復元車両
大鷹の湯にある1/2スケールの復元車両です。
○塩原軌道 広告
塩原軌道の広告です。「塩原温泉誌」(田代近三編集 宝来社 明38.8.6)より。